2016年10月29日土曜日

正長元(1428)年9月~10月 正長の徳政一揆(最初の徳政一揆。土一揆の時代の幕明け) 「日本開闢以来土民蜂起これ初めなり」(『大乗院日記目録』) ソールズベリー伯トマス・モンタギューのオルレアン包囲 足利持氏の陰謀の報 持氏に将軍宣下の風聞 上皇の出家騒動 熱田大宮司の家来なる吉川某の陰謀が発覚    

東京 上野公園 2016-10-24
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正長元(1428)年
9月
・大和国宇陀郡の秋山氏・沢氏が北畠満雅に協力しているとの報で、幕府は大乗院坊人らを向わせる。
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・仏、王太子シャルル(後の7世、25)、シノン城に本営を置く。
15日、三部会を召集、戦費支弁を求める。
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9月5日
・ソールズベリー伯トマ・ド・モンタギュ、ロンドン市民にジャンヴィル占領の戦果報告、ここを作戦本部とする。ここをベースに、マンの町と城、ボージャンシーを占領(25日)。
ロワール川左岸のクレリーの聖母教会を略奪、建物破壊。
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9月18日
・京都で正長の徳政一揆発生。最初の徳政一揆。土一揆の時代の幕明けを告げる事件。
附近の通路を塞いでいた郷民は、幕府軍の出兵・警戒によりその日の内に退散。
10日程後、京都市中に徳政一揆が起きた後しばらく静まるが、11月、京都・奈良を襲撃する土一揆が20日間程続く。
11月中旬、播磨まで波及し、畿内近国各地で徳政を求める一揆が蜂起。

この日、「日本開闢以来土民蜂起これ初めなり」(『大乗院日記目録』)とのちに回想される大一揆が勃発。
奈良では馬借や土民の勢いに押されて、興福寺が大和一国内に適用される徳政令を敷いたが、京都では、山城守護畠山満家の軍勢や、侍所赤松満祐の動きが俊敏でいち早く土民の蜂起を押さえ込み、大きな騒擾とはならず、徳政令も発布されなかった。

11月、奈良・宇陀、播磨(17日矢野、19日伊和神社付近)、12月、太良(若狭)、2月、大山(丹波)、7月、山田(伊勢)。

この年春から全国的な飢饉。
7月末~9月初旬、山門が幕府に嗷訴、8月末から西京の北野社神人が社内に籠って嗷訴。京都は物情騒然。
こういう中で、8月、近江の大津・坂本の地下人が徳政を要求した局地的騒動、鎮静。この日、醍醐・山科辺り地下人が徳政を要求して蜂起。大乗院の日記が「天下の土民蜂起」と嘆じ、「春日若宮神社記録」が、「伊賀・伊勢・宇田・吉野・紀国・・・」と記し、土一揆は畿内一帯に拡大したとみられる。

「一、天下の土民蜂起す。徳政と号し、酒屋、土倉、寺院等を破却せしめ、雑物等恣にこれを取り、借銭等悉くこれを破る。管領これを成敗す。凡そ亡国の基、これに過ぐべからず。日本開白以来、土民蜂起是れ初めなり」(「大乗院日記目録」同月日条)。
京都の東南郊、「醍醐の地下人が徳政と号して蜂起し、方々の借書等を悉く責出してこれを焼」く(「満済准后日記」)。

土一揆は馬借が先頭に立って突破口を切り開いたという見方が多いが、近江の馬借が京都の一揆に登場した明確な徴証はない。
9月の醍醐の蜂起が8月の近江の土一揆に触発されたものであることは疑えない。
即日三宝院門跡満済の要請で細川持之配下の数百騎の軍勢が醍醐寺内に警固に入り、管領畠山満家の遣わした侍所の200騎は、一揆の近江方面との連絡を恐れ北隣の山科に陣取る。しかしその後の経過の中で、近江の馬借が京都の一揆に合流した形跡はない。

正長の土一揆には、組織性の高さ、広域的な波及性、政治危機に乗ずる情勢判断の的確さ、それと関連する反中央的な国人眉の動きとの連絡など、その後の一連の一揆の典型的な性格を備えている。
幕府政治の危機を突くだけでなく、幕府が山門等諸権門と争い経済基盤に組みこんだばかりの土倉・酒屋を襲ったことは、支配権カに対する最も有効な闘い方であったといえる。

京都。
東寺を占拠した一隊が市中に出撃を繰返す。かなりの人数が市中を席巻し、土倉に押入り借書・質物を取返す「私徳政」が行われる。
その他、空也上人堂が放火炎上、在京武士が一揆に加わるおそれが出てきた為、幕府は諸家に命じて夫々の被官人から請文を呈出させる、東寺膝下の寺領内に一揆の張本人が摘発され、寺家が同心しているとの疑いがかけられ、法勝寺では執行が一揆与同の故に斬首、在京の武家・寺家にもかなりの動揺をもたらす。
幕府軍の出動はあるが、一揆はくり返し襲い、幕府が禁制を出した22日頃、私徳政の目的を達して下火になる。醍醐の地下人の蜂起に対し、山城守護畠山満蒙の軍勢が山科に進駐(「満済准后日記」)。

奈良。
土一揆は、市中に侵入できないが、徳政令をかちとる。
北の般若寺に集結した一揆は数千人ともいわれる大軍で、木津庄を本拠とする馬借と看做されていたが、衆徒筒井氏軍に追い散らされた際の死者30人程は加茂の東北の「和束の者共」であった。
西方の西大寺・法華寺等を占拠して襲った一隊は、鳥見・生駒の馬借であったという。般若寺・西大寺で集会を催し、北・西口同時に奈良侵入を計など、組織性がうかがわれる。
北・西の一揆が討伐されて退いた頃、南方では宇多(陀)郡の一揆が長谷寺その他の諸山寺に乱入、「徳政と号して質以下借書等を無理に乞返す」私徳政が起きる。
南の一揆が「山城ノ悪党ノ無念ヲ散ス」為に北上するとの噂が立ち、南からの攻撃は防ぎにくいと恐れ、興福寺の衆徒の決定と11月25日、南都の徳政令が出される。この徳政令は、質物・借銭は元金の3分の1を払えば請戻し破棄できる、5年経過した借銭・頼母子は無償で破棄、未進年貢は催促をさしおく、質物請戻しの期限も細かに定められる。幕府の徳政令は出されなかいが、この大和の例をはじめ各地で各様の徳政が行われる。。大和の徳政令は、守護権を持つ興福寺が出し、一国中の諸社寺領にこれを及ぼしたことは、衆徒の決定後、東大寺にも牒送し、東大寺は「その旨に任せて徳政を成し」たこと(「転害会施行日記」)などによってわかる。

「此程わうみの国より、土一揆の衆等、御得政と云事を仕出て、所々の倉々をやぶる。其より下京上も、少し馬借せめ入て得政をなす。これをはじめて、伊賀・伊勢・宇田・吉野・紀国・泉国・河内さかい、惣て日本国のこりなく御得政、当国(大和)にも里別に得政をかるなり」(「春日若宮社日記」同月日条)。

東寺領矢野庄(播磨)。
16日以前に土一揆の蜂起があり、守護方軍勢が進駐、一揆を理由に同庄を押え置くう事態。東寺は在京の守護赤松氏や幕府要路に奔走、12月、ようやく返還。矢野庄と殆ど同時に播磨各地で土一揆蜂起があったらしく、16日付で、守護家の在京奉行上原対馬守性智が在国の守護代小河氏へ、「当国徳政事」について急ぎ照会を求めている。
伊和神社附近のことと思われるが、19日に押寄せた土一揆により買得地の証文を焼かれた人物が、本主から売却後21ヶ年内の土地は取返すと申懸けられ、翌年坂本の守護所の裁許を得た事件があり、河内で行われたという21ヶ年紀の内容と同様の徳政令が播磨でも出された可能性がある。

矢野庄では東寺の支配回復後しばらく鳴りを潜めていたが、翌年2月3日頃、地下人が「土一揆国中成敗」を恐れて山野に隠れ忍び、19日、守護方が庄内に張本人が居るとの理由で兵糧・人夫等を責め課す。11月中旬以降も土一揆の行動が続いていたことが窺える。
尚、一揆鎮静後の7月、今度の「徳政」に際し目立った悪行をした彦六一派が地下代官・地下人等によって討ち取られる。代官は一揆与党の糾明に血眼になっている。この頃の代官は、守護方から徳銭をかけられる有徳の請負代官である。

「或る人いわく、播磨国の土民、旧冬京辺の如く蜂起し、国中之侍悉攻之間、諸庄園代、加之、守護方の軍兵、彼等のために或いは命を失い、或いは追い落さる。一国の騒動、希代の法也云々。凡そ土民の所、侍をして国中に在らしむぺからず云々。乱世の至り也。仍て赤松入道発向し了ぬ。」(中山定親「薩戒記目録」1429(正長2)年1月29日条)。
土民は、庄官の代官だけでなく守護方軍兵まで、およそ国中の侍を悉く攻める。

若狭でも徳政を訴える「土一揆」蜂起。
徳政一揆が起ると、太良荘では朝賢(15年前に代官職を罷免され名田を没収された)が公文職と名田回復を荘園領主に訴え認められる。
また、荘民の右近大夫と右馬大夫は、泉大夫の持つ真村名と道性の持つ勧心名の返却を求める。荘民や代官乾嘉らは、朝賢を排斥し、泉大夫と道性は名田返却を拒み、「地下さくらん(錯乱)」状態となり、翌年4月頃迄続く。
朝賢は、代官乾嘉に不満を持つ荘民を味方にして乾嘉罷免に成功、また、右近大夫らと泉大夫らとの間にも名田引渡しの妥協が成立したと考えられる。
荘園領主東寺はこの機会を利用して検注を実施、右近大夫らの名田回復を認め、地頭方については南北朝期貞治2年(1363)以前の支配に戻す。
このように荘民・代官・荘園領主は夫々の由緒により徳政を主張、その結果行なわれた検注はこの後の太良荘の枠組みを規定することとなる。

正長の土一揆後、
①高野山では学侶支配に対する行人方の抵抗・訴訟が強まり、1433年の「高野動乱」に突入するし、
②山門では山徒間の経済利権を巡る争いが激化し同年の「山門騒動」を招くし、
③大和の国人達は29年から筒井・越智に連なる諸氏が二派に分れて「大和永享の乱」に入るし、
④関東府・幕府内部でも夫々永享の乱、嘉吉の乱に向って対立が激化するなど、権力内部の矛盾を誘発し、次の嘉吉の大一揆の条件をつくり出す。
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9月22日
・管領畠山満家が招集して宿老寄合(重臣会議)。
メンバーは畠山・細川・斯波の3管領、山名・一色・赤松の侍所家、細川讃岐入道、畠山満則の両近習、それに在京していた駿河守護今川範政が加わっていた。
議題は北畠満雅の討伐と、関東への対策。
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10月
・義教、三宝院満済への御内書に「惣別して感悦極まりなく侯」と申送り、大内氏へのそれには「殊に喜び思し給り候、八幡大菩薩も照覧侯へ、弥憑入り候」と申送る。
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10月2日
・情勢を探るため関東へ二人の使僧(祖室・等懋とうぼう)が派遣される。
両人には、陸奥笹川にいて笹川御所と称された足利満貞および、京都御扶持衆(前代以来幕府寄りの東国有力武士)らに、持氏の動きに備えるよう幕府の指示が托される。"
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10月12日
・英軍のオルレアン包囲
ソールズベリー伯トマス・モンタギュー指揮イギリス軍、ロワール川辺に着。
19日(日)より包囲開始。南仏・英領ギュイエンヌとの連絡路確保のためロワール川中流オルレアン侯領オルレアンの町包囲開始。

オルレアン:
ロワール川中流にあり、町自体がロワール川南岸地域への橋頭堡となす戦略上の要地。

オルレアン占領:
①全ロワール川支配。
②王太子シャルルをブールジュに閉じ込め、イギリス・ブルゴーニュ連合の北フランスとイギリス王家最大の所領ギュイエンヌとの結合を可能にする。
③捕虜にした領主の領地は攻撃しない戦闘上の慣習を破る。オルレアン公シャルルはアザンクールの戦いで捕虜となり、また身代金を払えない多数の捕虜が殺害されており、オルレアン包囲は騎士道の掟を破り、神を冒涜する行為の象徴と化しつつある。

オルレアンは、ロワール川下流方面で孤立。
オルレアン市民は、ロワール川左岸の市外地区の建物(オーギュスタン派修道会の教会・修道院、ポルトローと呼ぶ町並み)を破壊しイギリス軍根拠となることを防ぐ。サン・テニヤン教会も破壊。

19日
・日曜日。オルレアンに対する包囲作戦開始。
包囲初日からトゥーレルの城塞(ロワール川に架かる橋の入口にある2つの高い塔)から砲撃。
オルレアンの家屋・建造物に被害が出るが、ロワール川辺の粉挽き用水車12台が破壊され、市民の食糧供給に支障をきたす。市民は、町の内部に馬力粉挽き機11台を設置。

22日
・オルレアンの防衛責任者、住民全員に武器を取るよう呼び掛け、自らロワール川に架かる橋桁の一部を破壊して進入路を拒む。

23日
オルレアン側、トゥーレル砦放棄。イギリス側は町の西側出口に城壁に向かい合うように砦3つを構築。食料不足など持久戦の疲労出る。

24日
・英側指揮官ソールズベリー伯トマス・モンタギュー、砲弾の破片を受け戦死。

25日
・包囲のオルレアンに増援部隊入る。
オルレアンの私生児ジャン(バタール・ドルレアン、後のデュノア伯及びロングヴィル伯、オルレアン家を代表する唯一の人間)、サント・セヴェール、ビュエイユの貴族、歴戦の勇士ラ・イール(エティエンヌ・ド・ヴィニョール)、テオドール・ヴァルベルグ、ポトン・ド・サントライユ(ロンヴァルディア出身野武士)。町の司令官はウラール・ド・ゴークール。
この時期、町の西側は包囲体制がとられるが、東側のブルゴーニュ門方面はまだ出入り自由の状況。東側にも、町の対岸にサン・ジャン・ル・ブラン保塁、町の上流にサン・ルー砦が存在。
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10月15日
・この日、憲実の越後守護代長尾邦景から急報。
持氏が越後の国人や長尾氏に「御方(みかた)に参り忠節を致すべき」旨の檄をめぐらしていることが判明。
管領からこの旨を聞いた満済は、「陰謀、全く已必定か」と驚き、醍醐寺へ戻る予定をとりやめ、京都の里坊法身院に逗留することになった。

16日早朝、幕府に出仕した満済は昨日管領から得た越後の情報を、詳しく義教に伝えた。
幕府としてはこうなった以上、即座に越後国人中へ宛てて、持氏に味方せぬよう御教書を発すること。関東への抑えとして、信濃守護小笠原政康、駿河守護今川範政に下国して持氏の進撃に備えるよう命じた(『満済准后日記』10月16日条)。

・持氏に将軍宣下の風聞
「仙洞(後小松)より関東へ征夷将軍院宣、成し遣はさるゝの由風聞これあり。この事凡そこの四五月以来の浮説なり。以ての外の重事、信用に及ばざる事歟。」(『満済准后日記』10月16日条)
義教が室町殿を継承して9ヶ月が経つのに、末だ将軍宣下が行なわれていない(4月14日にに従四
位下の昇叙があったのみ)。後小松上皇は関東の持氏を将軍に任ずるつもりではないかとの噂が、4、5月頃から流布していたという。
満済は「信用に及ばず」と打ち消すものの、上皇周辺ではこの数日来、気になる事が起っている。"

・上皇の出家騒動
10月中旬、上皇は「御落髪」(出家)しようと摂政二条持基に相談し、「大略内々の儀、御必定なり」と、出家が決定していた(『満済准后日記』10月14日条)。
ところが14日、院使右大弁親光が義教に伝えたところ、義教は、「当御代未だ御院参なし。仍(よつ)て未だ竜顔(りゆうがん)を拝せられざるの間」(上皇にまだ対面していない)との理由で、「平に御延引、畏(かしこ)み申すべき由」と返答し、強引に上皇の出家を諌止した。
上皇出家の決意と、持氏への将軍宣下の噂は関連あるかどうか不明だが、上皇がなんらかの事実の露顕、あるいは上皇への処罰を恐れて出家を決意したのではないか、との疑いも否定しきれない。

・熱田大宮司の家来なる吉川某の陰謀が発覚
「熱田大宮司の野田は当参(幕府)奉公の者なり。親に於ては関東奉公なり。この大宮司内者(うちのもの)吉川と云ふ者、方々へ料簡せしめ、この院宣(持氏将軍宣下)の事申し出づるの由、蜷川中務方より伊勢守方へ去月比(こと)申し了んぬ。爰(ここ)に又、吉川主人大宮司、伊勢方へ罷り打で申す様、召し仕ひ候吉川、都(京都)鄙(鎌倉)雑説について、不儀の事共候の間、打ち進(まいら)すべき由、代官方へ申し付くるの処、その身に於ては逐電し了んぬ。内者一人これを打ち候。然るべきの様、披露すべしと云々。(『満済准后日記』10月16日条)
熱田社の大宮司は親が鎌倉府の奉公衆(御家人)、子の野田が幕府の奉公衆で、尾張という土地柄からも、東西(都鄙)の情報が集まりやすい立場にあった。野田の家臣吉川某は(持氏側の働きかけもあったと思われるが)陰謀をたくらみ、上皇に持氏を将軍になす院宣の申請を、9月頃に京都で行なった。窓口は政所執事伊勢氏の代官、蜷川中務を通じてであった。蜷川中務はこれを幕府に報告し、義教・満済らもこの情報は得ていたが、あまりに荒唐無稽と感じたのか、騒ぎ立てずに様子をみていた。
一方、大宮司野田氏もこの動きを察知し、吉川を手討ちにせんと命じたが、すでに吉川は逃亡し、吉川の家来一人を殺しただけであった。ともかく野田は、この顛末を幕府に急報した。それが京都に届いたのは10月16日のこと。
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10月22日
・詳細は不明であるが、持氏将軍宣下に関して、ある僧が秘密を白状する。
「入夜三宝院に向ふ。妙法院賢長僧正の部屋、僧正に謁見し密談の事あり。夜前一侍者川原に於て礼問す。小兵局伝達の由、白状すと云々。准后を以て仙洞に尋ね申さるべきの由、管領等意見ありと云々。希代の事なり。猶ほ以て不審の事なり。慥(たしか)ならざるの間、口外に及ばざるものなり。(『建内記』10月22日条)

「今暁寅の末、大館、伊勢両人、御使として来る。一ヶ条重事なり。一侍者と号する僧、究問の事これあり。彼の白状持ち来る。一見を加へ了んぬ。希代の事なり。注し置くに及ばず。(『満済准后日記』10月22日条)
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