2016年12月23日金曜日

天承2/長承元(1132)年  鳥羽上皇による得長寿院(白河千体観音堂)の落慶供養。 備前平忠盛(37)はその造営の功により昇殿を許される。 「未曾有の事」(宗忠) 貴族の激しい嫉妬 「殿上闇討」(『平家物語』」巻1) 院近臣藤原家成の富力と鳥羽院の寵愛 藤原頼長(13)正三位・権大納言、読書始 

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天承2/長承元(1132)年
この年
・鳥羽上皇と美濃局(石清水別当光清の娘)に皇子(六宮)誕生。のち道恵法親王(四天王寺別当・園城寺長吏)。
この頃、同じ待賢門院女房の三条局(参議藤原家政女)も、鳥羽院の寵愛を受けて姫宮を生む。
六宮道恵:
長承2(1133)待賢門院御所参入。保延元年(1135)覚猷大僧正正弟子となる(4)。保延4年(1138)6月証金剛院にて出家(7)。保元3年(1158)1月14日四天王寺別当(27)。永暦元年(1160)10月3日親王宣下。同年11月園城寺長吏。永万2年(1166)正月21日四天王寺別当に還補。仁安3年(1168)4月25日没(37)。

美濃局との子:
長承3年(1134)七宮の覚快法親王(天台座主)誕生。他に、姫宮として高陽院姫宮。
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・ウェールズ、マドッグ・アプ・マレディス、ポウィス支配(位1132~1160)。イングランド勢力と手を結ぼうとして躓く。
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・クリュニー修道院、第3クリュニー大聖堂完成。ブルゴーニュ・ロマネスクの代表。
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・クリュニー修道院長尊者ピエール、修道会総会で一連の改革提案。総会には本院に修道司祭200、修道士1200参加。
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・「反ロゲリウス2世同盟」、参加者増加。
カンパーニア(カープア候ロベルトゥス2世、ナポリ公セルギウス7世、アリーフェ伯ライヌルフス、ベネヴェントの町)。
アプーリア(ヴェノーサ、アスコリ、メルフィ、ビシェッリエ、トラーニ)。
支配地域(アプーリア南部(反乱1131~1133)。カープア候国とベネヴェント地域(反乱1131~1135))。
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・テンプル騎士団ユーグ・リゴー、ロベール・ル・セネシャル(1136第2代総長就任、ロベール・ド・クラン)、バルセロナに持領を与えられ、モール人と戦い勝利。
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1月
・越前白山麓平清水に住む勝義大徳、没。
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3月13日
・鳥羽上皇、得長寿院(白河千体観音堂)の落慶供養。
備前平忠盛(37)、その造営の功により昇殿を許される。

平忠盛:
伊勢平氏の棟梁。平正盛の子。平清盛・平家盛・平経盛・平教盛・平頼盛・平忠度らの父。
平忠盛(37)、鳥羽院御願の千体観音堂(得長寿院。中央に丈六の観音像を安置、左右に観音像500体。御堂は33間。清盛はこれを倣い蓮華王院を建造)を造営、その功により内裏清涼殿への昇殿を許され殿上人となる。
宣旨の10日後、藤原宗忠は「未曾有の事」と日記に記す。
貴族の激しい嫉妬。「殿上闇討」(「平家物語」)。
この年11月23日、忠盛は、豊明の節会(新嘗祭最終日に行われる宴会)で貴族達が自分に危害を加えようとしているのを知り、銀箔を張った木刀を懐に忍ばせて襲撃者を牽制するが、天皇の前で舞を披露している最中に「伊勢平氏はすがめなりけり」と嘲笑される。

 しかるを忠盛備前守たりし時、鳥羽院の御願(ごがん)得長寿院を造進して、三十三間の御堂(みどう)をたて、一千一躰の御仏(おんほとけ)をすゑ奉る。供護は天承元年三十三日なり。勧賞(けんじよう)には闕国(けつこく)を給ふべき由仰せ下されける。境節(おりふし)但馬国のあきたりけるを給(たび)にけり。上皇(しようこう)御感(ぎよかん)のあまりに内(うち)の昇殿をゆるさる。忠盛三十六にて始めて昇殿す。雲の上人(うえびと)是を猜(そね)み、同じき年の十二月二十三日、五節豊明(ごせつとよのあかり)の節会(せちえ)の夜(よ)、忠盛を闇打にせむとぞ擬(ぎ、議)せられける。 

 忠盛を刺そうとしだ公卿たちの計画は、忠盛の耳に入っていた。
のちの面倒を考えた忠盛は、豊明の節会の夜の昇殿にあたって、銀箔を貼った木刀を大きい鞘巻(鍔ない刀)にこめて、束帯の下に無造作に見えるよう携帯。

「束帯のしたにしどけなげにさし、火のほのぐらき方(かた)にむかつて、やはら此(こ)の刀をぬき出(いだ)し、鬢(びん)にひきあてられけるが氷なんどのやうにぞみえける。諸人目をすましけり。」

燭(しよく)のあかりを取り包む闇。火かげに一閃、銀の光。
そして、あかりのわずかに届く殿上の中庭には、忠盛の郎等、「薄青の狩衣(かりぎぬ)のしたに萌黄威(もえぎおどし)の腹巻」を着て、弦袋(弓の替え弦を入れる袋)をつけた太刀を脇に挟んだ左兵衛尉家貞が、かしこまって控えている。

「五節豊明の節会の夜」は、4日にわたる新嘗祭の最後の日の夜。五節の舞姫が加わって酒宴となり、朗詠、今様、乱舞の催しがある。一座の空気がにぎやかに、はんなりと保たれているのはしばらくのあいだで、やがて猥雑に落ちていく(本文に十二月二十三日とあるのは十一月二十三日とあるべきところ。語調でこうなってしまったのか)。

忠盛が名ざしを受けて御前で一さし舞を披露し、無事に舞い収めると、人々は突然、拍子を変えて、「伊勢平氏(へいじ)はすがめなりけり」と囃(はや)し立てた。平氏が伊勢の国に長く住みついていたことと、忠盛が片方の目だけ細く「すが目」だったこととを酢瓶(すがめ)の瓶子(へいじ)に言いかけた。

忠盛は、紫宸殿の後で殿上人が見ているところで主殿司(とのもづかさ)を呼び、刀をあずけて退出。
五節後、殿上人は、忠盛が武士を殿上の小庭に召し、刀を持って節会の座に列席したと訴え。
鳥羽上皇の質問に対して忠盛は、人々が何か計略していると伝え聞いた家来が来ていたとしたら、いたしかたのない事、刀は主殿司に預たのでそれを調べてほしいと答える。刀は木刀に銀箔を貼り付けた物。
鳥羽上皇は、刀を帯びているように見せ、後日の訴訟に備えて木刀にしていた用意深さは感心、家来の件は武士の家来の常の事で、忠盛の罪ではない、と褒める。

忠盛は貴族たちの反発を上手にかわし、これを契機に平氏は貴族との交わりをもつようになったというのが『平家物語』の意図するところで、この昇殿は平氏による武家政権への階梯の第一歩となった。

この話はどこまで事実を伝えているのか。
11月21日に殿上の淵酔があり、殿上人は待賢門院や中宮の方に参じたことは見えている。
但し、貴族の日記には特別な記事は見えない。
未発に終わったので記されていないことも推測されるが、誇張されて創作されたものと見るべきで
あろう。
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閏4月4日
・高階盛章を越前守に任じる(「中右記」)。
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閏4月16日
・疫病流行により、諸国に丈六(じようろく)観音像を図絵し、経供養を行うように命じる。
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5月
・摂津国の橘御園(たちばなのみその)に居住する源光基(みつもと)が殺害される。
70歳余の母の尼、妻子ら10余人が殺される。
犯人は園の下司(げし)の成美(なりざね)なる人物であったという。
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6月
・カスティーリャ・レオン王国トレード軍事総督ロドリーゴ・ゴンサーレス・デ・ラーラ伯、セビーリャ周辺を襲撃。セビーリャ総督ウマル、キリスト教徒部隊に追いつくがアサレーダで敗戦。
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7月
・院近臣藤原家成の富力。
この月の京中の焼亡に際し、院御所2宇・御倉11宇とならんで、隣接の播磨守家成宅2宇・倉10宇が焼けたことを特記している『中右記』の記述にも窺われる。 
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8月
・ノルマン・シチリア王ロゲリウス2世、アプーリア反乱軍を鎮圧。夏、バーリを占領。
バーリ候グリモアルドゥス・アルファラニテースを投獄、バーリ候国をノルマン・シチリア王国に併合、次男タンクレドゥスにバーリを与える。
反乱鎮圧後、コンヴェルサーノ伯ゴフレドゥス息子タンクレドゥスとアンドリア伯ゴフレドゥスの領地を没収。  
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8月4日
・天文博士兼時、彗星見るという。気頗る天に亘る。7、8夜見える。
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8月11日
 ・「長承」に改元。
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8月25日
・醍醐寺円光院領越前大野郡牛原荘の引出物を免除する旨の留守所宛ての庁宣が出る。
9月23日、醍醐寺円光院に、越前大野郡牛原荘の四至を応徳3年当時に戻し、国郡の牢篭を停止する旨、及び前国守藤原顕能が責め取った引出物の絹を返却するよう越前国司高階盛章に命じる旨の官宣旨出る。
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8月25日
・寅刻、彗星、北方に見ゆ。長さ3尺、白色、尾は西を指し觜度にあり。近く敷星に入る。
27日寅刻、彗星婁第三星と近し。3丈。光芒盛ん。戌亥を指す。
28日に南行、光芒衰微。1丈。光芒気奎宿に相見える。
29日夜同座にあり南行。下司空星と並ぶ。芒角減少し2、3尺。以後見えず。(「中右記」)
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9月
・鳥羽院の近臣家成への寵愛
家成への鳥羽院の寵愛のほどを知ったことから、摂関家の忠実は他人を決して入れない方針を破って宇治の経蔵に家成を入れている。
『続古事談』の話。
「鳥羽院、宇治に御幸(みゆき)ありて経蔵ひらきて御覧じけるに、此経蔵はよの常の人いる事なきに、富家殿(ふけどの、忠実)御前に候給て、播磨守家成時の花にてありければ、御気色(みけしき)にかなはむとやおぼしけん、召入られけり。」
『中右記』は宇治の平等院に御幸した鳥羽院が経蔵に入った際に従ったのは、「大殿、関白殿、三位中将」の忠実父子と「家成朝臣」だけであったと記す。家成が「院第一の寵人」であったことによるものではあったが、院が家成を経蔵に入れたかったのはそれだけでなく、その経蔵にならって鳥羽に宝蔵を造営する計画があったから。
長承3年、家成は播磨を知行してその宝蔵を造営しており、家成は院の好みによく応じて奉仕したのであった。
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・ドイツ王ロタール3世、イタリア遠征(1132~1133)。
ロタール3世、娘婿バイエルン大公ハインリヒ尊大公にイタリア遠征中の帝国行政を委任、シュヴァーベン大公フリードリヒとの戦いを督促。
ハインリヒ尊大公はフリードリヒとの戦いを拒否し和平提案するが、和平成立せず。
ロタール3世・ハインリヒ尊大公間の亀裂により、ロタール3世イタリア遠征に騎士1500しか集まらず、イタリアで侮辱・嘲笑を受ける。
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・秋、アプーリアで再度ノルマン・シチリア王ロゲリウス2世に対する反乱。
反乱参加者は、領地を奪われたコンヴェルサーノ伯ゴフレドゥスタンクレドゥスとアンドリア伯ゴフレドゥス、タンクレドゥス兄弟アレクサンデル、バーリを含むアプーリア諸都市。
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10月7日
・白河九体丈六新阿弥陀供養あり。勧賞として若狭守藤原信輔を従四位上に昇叙(「中右記」)。
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10月7日
・藤原頼長(13)正三位。
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10月13日
・鳥羽上皇、高野山参詣に出発。若狭守藤原信輔・越前守高階盛章ら殿上人13人が従う。
17日、上皇、高野山で伝法・密厳両院を供養。

忠盛は家成とともに鳥羽院の近くに仕え、この高野詣(こうやもうで)では殿上人として
「播磨守家成、備前守忠盛」の名が見える。 その他、長承2年7月の院の上御方(うえのおんかた、のちの美福門院)の家司(けいし)にも
ともに選ばれている。
保延2年2月の院庁下文にも別当として播磨守家成、美作守忠盛の名がある(『平安遺文』)。 このような関係もあって、清盛も家成の家に出入りしていた。 『延慶本平家物語』は、後年の鹿ヵ谷事件で捕まった西光が清盛に向かって次のように痛罵
したと語っている。 「殿は故刑部卿(ぎようぶきよう)忠盛の嫡子にて渡らせ給しかども、十四、五歳までは叙爵を
だにもし給ず。冠をだにも給らせ給はで、継母の池(いけ)の尼公(あまぎみ)のあはれみて、
藤中納言家成卿の許へ時々申より給し時は、あれは六波羅のふかすみの高平太(たかへいた)
の通るはとこそ京童(きようわらは)は指を指して申しか。」 前段の「十四、五歳までは叙爵をだにもし給ず」とあるのは明らかな間違いであるが、
「継母の池の尼公」の指示で家成の邸宅に出入りしたという点は注目できる。
家成は池の尼公の従兄弟にあたり、清盛は富と権勢を有する家成の邸宅に継母の紹介で
出入りしたらしい。
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11月23日
・殿上闇討。五節豊明の節会、平忠盛闇討ちの噂、忠盛の機転(「平家物語」巻1)。
3月13日の項に既述。
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12月
・エルサレム王フルク5世、ヤーファ奪回の為の兵を集結。
この頃、ダマスカスのアターベク、イスマーイール(ブーリ息子)、暗殺教団よりバニヤースの砦を奪回。
フルク5世妻メリザンドと青年騎士ユーグ・ド・ピュイゼの噂が流布し、ユーグは危険を感じてエジプトに亡命。エジプト軍の支援のもとにヤーファを占領したため。
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12月5日
・頼長(13)の読書始の儀式
表向きの学始めである読書始(ふみはじめ)の儀式はこの日、関白忠通の近衛室町邸において行われた。書物は『史記五帝本紀』が用いられ、師には式部大輔藤原敦光(あつみつ)が選ばれた。
『中右記』によれば、
まず頼長が所定の座につき、次に敦光が「師匠の座」につく。次に頼長が書をひらく。次に敦光が書をひらいて「史記の集解(しつかい)の序」と読み上げる。頼長がこれにならって復唱する。儀式の中心はこれで終り、敦光は祿を給わって退席し、つづいて頼長も退席する。次に座を改めて頼長・敦光を始め参列の公卿・殿上人らによって宴が催される。
このように読書始の儀は全く形式的な儀礼である。

これとは別に頼長は藤原令明(よしあきら)について「幼少の時私(ひそ)かに孝経を習」った由を日記(康治2年8月28日)に記している。

自覚的または本格的な勉学を始めたのは、どちらかと言えばおそい方であったらしく、康治2年9月の日記にそれまでに学んだ書目を列記したなかで、最も早いものが保延2年17歳の時の『蒙求(もうきゆう)』であることはそれを示している。

頼長が成年ののちみずから述懐しているように、彼は生れつき学を好んだわけではなく、少年の日には父の命をきかずに学業を擲って鷹を臂(ひじ)にし、馬に鞭って山野を駆けめぐり、ついに誤って傷をこうむり、危うく一命を失う程の目にあい、それより心を改めて学業に励んだのであるという。
この大怪我も一つの動機となったであろうが、他面宮廷出仕に伴って漸次学問の必要を自覚するようになり、その上に物事に徹するかれの天性も加わって、あの驚くべき勉学振りとなったものと思われる。
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12月25日
・頼長(13)、秋除目(定期の任官式)で参議を経ずに権中納言に直任される。
同2年2月春日祭の上卿(じようけい、公事奉行の公卿)を無事に勤める。
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