2016年12月27日火曜日

長承2(1133)年 平忠盛の日宋貿易への関与(肥前国神崎荘、大宰府を排除) 藤原頼長(14)、従二位、春日祭上卿を勤む、徳大寺実能の女幸子(22)と婚姻 源義業の子昌義、佐竹冠者と称す(佐竹氏の由来) 法然誕生 藤原泰子(39)、鳥羽上皇(31)に入内 

北の丸公園
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長承2(1133)年
この年
・平忠盛の日宋貿易への関与
この年、忠盛は、王家の直轄領である肥前国神崎荘(現佐賀県神埼市)を預かる立場を利用して日宋貿易に関与。

忠盛は肥前国の神崎荘を知行したことから、ここに下ってゆき、入港する唐船との間で交易を行っていたものらしい。
この神崎荘は後院領(ごいんりよう)という、院の直接の管轄下にある荘園であり、忠盛はその特権を利用して日宋貿易を進めたものと見られる。

忠盛は神崎荘の位置に目を付けて、その知行を望んだものと考えられるが、それはこれ以前に忠盛が越前守に任じられたことが契機となって、さらに博多への進出となったものと見られる。
宋の商人は通常は博多にやってきて貿易を行ったが、時に日本海を回って、越前の敦賀にきて交易をすることもあった。越前守はその敦賀での交易の管轄者であり、忠盛はそこでの貿易の利に目をつけたことから、さらに本格的に取引を行うべく、博多に足がかりを求めたのであろう。

ただ、博多での貿易を管轄する大宰府を知行したのは公卿クラスの貴族であったから、それは望むべくもなく、そこで後院領の神崎荘の年貢を保管し、積み出す倉敷が、博多に置かれていることに目を付け、ここを根拠地に貿易を行ったものと考えられる。

なお神崎荘は忠盛が亡くなった跡には藤原信西が知行するが、信西は『通憲(つうけん)入道蔵書目録』にうかがえるように膨大な中国の書籍を収集しており、遣唐使として中国に派遣されることを夢見て、中国語を話せるように勉強したという逸話も残されている。日宋貿易と神崎荘の知行は深く関わっていた。
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・金の入手
宋の商人と貿易を有利に行うためには、商人らの求めに応じた輸出品が必要とされるが、その最たるものが金であった。
信西と並ぶ「大学生(だいがくしよう)」藤原頼長は父忠実から奥州の荘園を講られると、年貢の金の増額を要求するとともに、他方で宋の商人に必要な書物の目録を渡して、宋から書物の購入を図っている(『台記』)。

平氏の場合は、その勢力基盤である伊勢で水銀を産出し、近くの志摩で真珠を産出するなど、輸出品には事欠かなかったが、さらに金を入手すべく動いたことであろう。
経盛(つねもり)を産んだのは源信雅の娘であるが、信雅は天承元年(1131)から保延元年(1135)まで陸奥守になっており、金が公領の年貢や産物の形で入手できたことを考えると、その金も平氏の手を通じて日宋貿易に役立てられたと見られる。
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・源為義は実父の義親が平正盛によって追討されたために、祖父義家の養子として成長し、検非違使に任じられ、この頃には畿内周辺に勢力を広げていた。
この年、為義の郎等が丹波国で多くの人を殺したという噂が流れている(『長秋記』)。
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・この年前後、藤原俊成、「丹後守為忠朝臣家百首」に出詠、歌人としての活動を本格的に始める。
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・教皇イノセント2世とベルナールの仲介で、ピサとジェノヴァの和解成立。
イノセント2世とベルナール、フランスよりイタリアに到着、ドイツ王ロタール3世と合流。
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・ムワッヒド朝アブド・アル・ムーミン、「カリフ」宣言。
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・グラナーダ、ムラービト朝ターシュフィーン・イブン・アリー、イダニャ・ア・ペリャ攻撃、後、放棄。
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・ムラービト朝コルドバ総督イブン・ガヌーナ、キリスト教徒掠奪部隊に敗れコルドバ総督を更迭。
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・カスティーリャ・レオン王アルフォンソ7世、グアダルキビール川を下りアンダルシーアに掠奪遠征。へレース・デ・ラ・フロンテーラを掠奪・破壊、セビーリャに進軍。カディスまで前進。セビーリャでムラービト朝を追放、スペイン・イスラム国を樹立、国王に最後のサラゴーサ王アブド・アル・マリク(サイーフ・アッ・ダウラ)擁立に合意。
最後のサラゴーサ王アブド・アル・マリク(1131年アルフォンソ7世に臣従) とトレード軍事総督ロドリーゴ・フェルナンデスを伴う。
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・アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世、サラゴーサで建造した艦隊によりメキネンサ攻略(エブロ河畔)。後、フラーガ包囲開始。
フラーガ包囲従軍;
ベアルンのサンテュール5世、ナルボンヌのエムリ2世、ロベール・ビュルデー、ベルトラン・ド・ラン、ローダ司教、ハーカ司教、レスカール司教。ロベール・ビュルデー、ムラービト朝援軍を撃退。
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・イングランド、ヘンリ1世、カーライルに新しい司教座を設置。
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1月
・ダマスカス、スルタン・マスウード(マフムードの弟)、即位。
前のスルタン・マフムード(26)没後。カリフ、アル・ムスタルシドが権力誇示。
マフムード没後、ダマスカスは王位継承の争い。
アレッポのザンギー、ダマスカスに進軍。
バグダードのカリフ、アル・ムスタルシドとティグリス川の町タクリート郊外で戦う。
ザンギーは危機をタクリート要塞司令官アイユーブに救われる(アイユーブ息子がサラアーフッディーン、後のサラディン)。
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1月2日
・藤原頼長(14)、従二位。
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1月13日
・東大寺領黒田荘と興福寺領長瀬荘が争う。
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1月27日
・越前国司高階盛章に宛てて、参議藤原成通の越前大野郡泉郷の私領を醍醐寺円光院領として牛原荘に毎年300石を弁済する旨の官宣旨が出る。
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1月29日
・鳥羽上皇の封戸から若狭65戸・越前48戸を割いて金剛峯寺に施入するとの太政官符出る。
8月22日、この太政官符により、民部省が若狭国司藤原信輔・越前国司高階盛章に宛てて、金剛峯寺に封戸を施入する旨の符を出す。
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2月
・この月、安房守が(『中右記』)、押領使の兼任と随兵の設置を諸国条事で申請し、「恒例」として許可された。坂東の国司が押領便の兼帯と随兵の設置を諸国条事で申請し、先例に基づいて許可されることが恒例化していた。
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2月9日
・春日祭使出発。若狭守藤原信輔ら院殿上人12人が同行(「中右記」)。
頼長(14)、春日祭上卿を勤む
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2月16日
・待賢門院御願の塔を石清水に建立供養。
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2月27日
・源義業(57)、没。義光嫡男。常陸大掾氏の娘と結婚、常陸での勢力を強める。
この年、義業の子昌義、「佐竹冠者」と称し、常陸久慈郡佐竹郷の馬坂城を奪い本拠とする。
この地名が「佐竹氏」の名の由来となる。昌義は常陸七郡を平定、常陸に佐竹氏の基盤を定着させる。
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3月5日
・ヘンリー2世、フランスのル・マンで誕生(1133~1189、位1154(21)~1189、妻アリエノール)。母ヘンリー1世娘マティルダ、父アンジュー伯ジョアフリー。
ヘンリ1世、1127年の娘マティルダの時と同様、貴族達にヘンリ2世への臣従の誓いをさせる。
「プランタジネット」は、父ジョアフリーがトレードマークにするエニシダの枝の語が縮まったもの。
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3月18日
・平等院多宝搭、建立。
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3月30日
・ドイツ王ロタール3世と教皇イノセント2世、ローマに入城(ベルナール、教皇に同行してローマ入り)。
ロタール3世はアヴェンティン、教皇イノセント2世はラテラノ宮を占拠。
対立教皇アレクレート2世、サン・ピエトロ寺院、クレッシュンティウス城、ローマ市内の大部分を占領。
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4月7日
・浄土宗開祖となる法然上人、誕生。
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5月28日
・金剛峯寺、若狭・越前の封戸施入の1月29日付太政官符の請文を出す。
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6月
・バグダードのカリフ、アル・ムスタルシド、ザンギーのモースルを包囲。3ヶ月後退却。カリフの権威は落ちる。
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6月4日
・ロタール3世、コンスタンティヌス教会で教皇イノセント2世より皇帝戴冠。
ロタール3世とイノセント2世、「辺境伯夫人マティルダ自由所有地条約」締結。
教皇は100マルクの年税取得。
皇帝は土地を自由に使用。教皇とロタールの死後は土地をローマ教会私有財産。
イノセント2世、ロタールに「ドイツ王国での帝国教会領支配と帝国教会からの奉仕」を確認。
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6月9日
・六宮道恵(1、鳥羽上皇・美濃局の子)、待賢門院御所参入(「長秋記」)。
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6月11日
・石清水別当光清、娘の待賢門院美濃局のために観音堂建立を発願。
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6月19日
・藤原頼長(14)、閑院流藤原氏の徳大寺内大臣実能(徳大寺実能)の第一女幸子(22)と婚姻
(長子誕生はその5年後、側室源信雅娘の所生)。

この日、実能は藤原顕頼(あきより)の二条烏丸邸を借り、ここに頼長を迎えて聟取の儀を行い、上皇・女院・皇后はそれぞれ贈物をしてこれを祝福した。
ついで27日、露顕(ところあらわし、披露)の儀を行い、7月13日、頼長は「別家」ののち初めて賓客を招いて饗応し、さらに翌年2月には自邸において作文和歌始を行った。
これより頼長は引続いて二条烏丸邸に実能らと同宿していたが、長承4年正月、火災に遭ったため、実能の大炊御門(おおいみかど)高倉邸に移り、実能はその東方の舎屋に居住し、頼長は西方の舎屋を居所とした。
実能は白河院政期の権臣公実の男であるが・この閑院流藤原氏は公成以来白河・鳥羽・崇徳3帝の外戚として急速に繁栄を来たした家柄で、実能もまた待賢門院の同母兄にあたるのである。

この結婚については、『長秋記』の記述から推すと、実能の方がこの聟取に積極的であったようである。
年少の頼長は恐らく父忠実の指示に従っただけであろうが、忠実も院政開始以来繁栄を誇っている閑院流の女子を要ることに反対ではなかったと考えられる。

しかしこの後、例えば忠実・頼長の推挙によって実行・実能兄弟が相並んで太政大臣・内大臣に昇進した経緯や、頼長失脚後の実能らの冷淡な態度をみると、両家の結合はほとんど一方的に実能らの勢力伸長に利用される結果に終ったと言える。

頼長は幸子を嫡室として終生これを敬重したが、一子をも挙げることができず、側室との間に教子を得るに止まった。
保延4年源師俊の女および源信雅の女にそれぞれ男子(兼長および師長)を得、同6年には民部大夫為宗の女に女子の、永治元年(1141)および久安元年(1145)にも師俊の女にそれぞれ男子(隆長、範長はんちよう)の誕生をみた。

嫡室藤原幸子
久安4年、養女多子の入内に先だって名を幸子と定め、従三位に叙せられた。
仁平元年(1151)、頼長の内覧宣下にともない政所を設け、こののちは北政所の称を用いた。
久寿2年(1155)4月ごろから病を得、漸次病状が悪化したので、陰陽師の占いに従って居所を変えるため、5月13日、それまで頼長と同居していた高陽院御所土御門殿から実弟公親の一条富小路宅に移ったが、6月1日、そこで没した(「台記」)。行年44。
葬礼は公親宅から出して北山の菩提樹院に葬ったが、頼長は「内覧の人此の如きの事歩行の例未だ曾つて聞ず」との批難がましい評言をうけながらも、歩行してこの葬列に従い、「諸事式法に任せて更に省略なし」といわれる程丁重にこれを葬った。また頼長は翌保元元年5月21日、法成寺阿弥陀堂において盛大な一周忌法会を営み、さらに6月1目にも同阿弥陀堂で正忌法要を修した。1日の法会は、表向きは皇后多子の催すものとされているが、実質的には頼長の沙汰とみてよいであろう(「兵範記」)。
幸子には所生がなく、妾腹の兼長・隆長2子を養子としている。
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6月29日
・藤原泰子(39)、鳥羽上皇(31)に入内。
前の年、忠実が政界に復帰すると、この年、忠実失脚の直接の原因となった娘勲子(泰子と改める)の入内問題が決着する。彼女は39歳で鳥羽上皇よりも8歳年上。
この勲子改め泰子が、上皇の配偶者として皇后の地位を得たことは異例であったが、それだけに、上皇と忠実との協調関係を示す象徴的な婚姻とみることができる。

また、鳥羽上皇には、この時期、もう一人の女性との新たな関係が進行していた。それが、待賢門院から上皇の心を離してしまうことになる院近臣藤原長実の娘得子(のちの美福門院)。
6月19日、東三条邸において泰子の院参定が行われ、29日、泰子は忠実に伴われて東三条邸から修造したばかりの土御門殿に入り、夕刻上皇の御幸を迎えた。
この院参は政治的な色彩の濃いもので、宮廷各方面に微妙な影響を与えた。
白河法皇の猶子として入内した待賢門院もこれに対して強い不満と動揺をかくし得なかった。女院が腹心の源師時(もろとき)にその心境を洩したところによると、女院自身はこの院参を予想してはいたが、実は故法皇は閉眼のみぎり、将来とも泰子の入内(院参)があってはならぬと遺言したのであって、いまたちまちその遺命に背くことになったのは嘆かわしいことであると語っている(「長秋記」長承2年6月2日)。
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夏の始め
・トゥール大司教ヒルデベルトゥス(78)、没(1055~1133)。
フランスの高位聖職者、後継大司教に関してルイ6世(肥満王)と争い教皇の介入を招く。
ベルナール、ブロワで教皇特使としてトゥール司教選挙の紛争を決着。
1055年ラヴァルダンで誕生。1096年(41)~1025年ル・マン司教。1025年(70)~1133年トゥール大司教(トゥールはアンジュー伯領)。
最も高名なラテン語詩人(11世紀の詩はシャルトルのフルベルトゥスから始まりル・マンのヒルデベルトゥスで終る。第2のホメロスと呼ばれる。古いローマの栄光を讃えるエレギア:「12世紀の古典主義」の高い水準を示すもの)。
1031年頃、巡礼の誓いを立てたアンジュー伯ジョフロワに巡礼より統治を薦める。
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7月19日
・藤原長実(59)、没。溺愛する未婚の娘得子(16)を案じつつ。
家柄は、末茂流という藤原北家でも傍流に属し、摂関期には受領にはなるが、とても公卿にはのぼれず、だいたい四位か五位がいいところという程度であった。
ところが得子の祖父顕季が、白河院の乳母子(顕季の母親子が白河院の乳母)であった関係から、院近臣として急速に台頭した。
顕季は、白河院の外戚であった閑院流藤原氏の実季の養子として、朝廷に出仕し、30年にわたって讃岐・丹波・尾張・伊予・播磨・美作の国守を歴任する。白河院政開始と同時に、院別当となり、院に経済的奉仕を行い、ついに長治元年(1104)、従三位にのぼって公卿に列した。

得子の父長実も、父の築いた基盤をもとに、院近臣として活躍する。
保安3年(1122)従三位にのぼって公卿となり、大治4年(1129)4月、白河法皇没の直前に参議になる。それまでに30年にわたって受領を歴任し、参議として1年、権中納言として4年で没した。

宗忠『中右記』には、「才知に非ず、英華に非ず、年労に非ず、戚里に非ず。世間頗る傾く気有るか。但し本より大幸人也。天これを与ふるか。若くは是れ故白河院御骨を懸け奉る賞か」とその権中納言昇進を酷評されている。

この翌年、長実一族が処分される出来事が起こる。
得子の兄長輔(ながすけ)が昇殿を停止され、備後守と伯耆守であった兄2人も国務を止められ、更に姉も屋地・荘園・資材・雑具を収公され、そのほか一家眷属がそれぞれ財産を没収された。
この事件は、待賢門院が鳥羽上皇に働きかけた結果であると思われる。
崇徳天皇はまだ16歳なので、父の意志に反したこのような厳しい処分を行いえたとは考えにくい。鳥羽上皇は反発を感じても、自分の皇子は全てこの女院が生んでいるので、従わざるを得なかったのだろう。
待賢門院と得子では、格が違いすぎた。また、この時点では、鳥羽上皇と得子の関係が、すぐさま上皇の心を待賢門院から離反させることにはならなかった。
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7月21日
・延暦寺西塔の学徒と中堂の僧が闘う。
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8月13日
・鳥羽上皇領肥前神崎荘伊倉の港に宋の商船(周新という者の船)来航。
太宰府臨検の下に貿易。
荘園預所の平忠盛、院宣を請い(自作?)、本荘が管理すべきと太宰府関与排除。批判される。

平忠盛、自分が作った下文を院宣と偽り、宋の交易船と太宰府の官人の交易を中止させる(「長秋記」)。

『長秋記』この条
この日、院近臣の大宰権帥藤原長実からの相談を受けた中納言源師時は、その訴えを聞いた。
鎮西に唐船が来航したので例によって大宰府の官人(府官)が交易をしようとしたところ、備前守平忠盛が下文(くだしぶみ)を成して院宣であると号し、宋人の周新の船が来着したのは神崎荘領であるから、府官がこれに関与してはならない、と遮ったという。

宋の商人が来航すると、府官が博多に赴いて持参した物資を買い取るのが例であったが、忠盛が、これを阻止した。
肥前の神崎荘は院が直営する後院領であり、有明海に臨む大荘園であったから、唐船はここに入港したとも考えられるが、博多には神崎荘の年貢を保管し積み出す倉が置かれていて、忠盛はここに到来した宋商と取引を行っていたものと見られる。

忠盛が日宋貿易を推進したのは、貿易の利を求める動機とともに、院の宝物収集に応じ、大陸から入ってくる宝物を院に進呈して歓心をかうことを考えてのものであった。

宋船は院領の神崎荘領に来着したので太宰府は関与してはならないとする(有明海の神崎荘か博多の神崎荘所領かは不明)。
忠盛は鳥羽院院司で、後院領(院が直接管轄する荘園)神崎荘を知行。
私貿易を展開するため大宰府の干渉を排除。
保安4年(1123年)忠盛は越前守になり、敦賀での貿易の経験から貿易の利に着目し、神崎荘の知行を望む。

寛平6年(894)遣唐使廃止以降、太宰府が大陸・朝鮮半島との貿易の管理を行う。商船が博多に入港すると朝廷から唐物使が派遣され、朝廷による舶来品買い付けが行われ、その後、民間人が交易を行うシステム。
京の貴族には、自ら太宰府に使いを派遣し、唐物使の取引が終わる前に舶来品を買いあさる者もいるほど唐物は人気があり、貿易の利益は大きい。11世紀頃は唐物使による官営貿易は形骸化し、太宰府の役人が私貿易を行う。更に、院政期には、九州沿岸の荘園領主が宋船を自領に招き入れ、直接交易を行うようになる。
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8月28日
・地震あり。この年、地震多発。
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9月
・鳥羽院の優柔不断な性格を物語るエピソード。
『長秋記』長承2年(1133)9月15五日条に見える源雅定(まささだ)の検非違使別当の辞任の理由。

雅定は別当辞任を申し出た理由として、「往々所々の殺害の事」が絶えないことをあげて、これは身の不肖によるものであると述べつつも、近日になって重犯が頻発しているのにもかかわらず、上皇から指示が全くないことを問題にしている。
白河とは異なって、鳥羽は周囲の状況を考えながら裁断を容易に下そうとはしなかった。そのために政治は成り行きに任されてゆき、諸国所々での殺害事件も絶えないまま放置されることになった。
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9月21日
・越前大野郡牛原荘の役夫工作料米を免除の越前国司庁宣、越前国府留守所に宛てて出る。
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・皇帝ロタール3世、ドイツに帰国。
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12月末
・ノルマン・シチリア王ロゲリウス2世(38)、アプーリアの反乱鎮圧。
アンドリア伯ゴフレドゥス、コンヴェルサーノ伯ゴフレドゥス息子タンクレドゥス、投獄。タンクレドゥス弟アレクサンデル、逃亡。アレクサンデル息子2人(ロベルトゥスとゴフレドゥス)投獄。タンクレドゥス家臣ロゲリウス、絞首刑。敵側についた町(ビシェッリエ、トラーニ、トロイア、メルフィ、アスコリ)の城壁破壊し、トロイア、メルフィ、アスコリの裁判官、絞首刑。
ロゲリウス2世、アプーリア地方を王家の直接の支配下に置く(長男ロゲリウスをアプーリア公、次男タンクレドゥスをバーリ候(後、ターラント候)に任命。1134年4月姉妹ユディクタ夫ロベルトゥス・デ・バスンヴィラにコンヴェルサーノ伯領を与える)。
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・アラゴン王アルフォンソ1世武人王、メキネンサ奪取。
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