2017年1月27日金曜日

社会の分断 他者思う大人(たいじん)はどこに (小熊英二『朝日新聞』論壇時評2017-01-26) ; 人が他者を思い、結びつくこと。そこからしか、政治と民主主義の再生も始まらない。

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社会の分断 他者思う大人(たいじん)はどこに 
(小熊英二『朝日新聞』論壇時評2017-01-26)

 「私には仕事が必要だ。私の子供は大学に行く必要がある。トランプ氏はそれを約束してくれている。おそらく彼は、その人種差別的で性差別的な政策をやり通さないだろう」

①エマ・ブロックス「バーニー・サンダース、スパイク・リーに会う」(現代思想1月号)
②マイク・デイヴィス「革命はこれからだ」(同)
 米大統領選で注目されたサンダース上院議員は、有権者の真意をこう推定している(①)。
実際に社会学者のマイク・デイヴィスによれば、トランプ投票者の2割は、トランプ個人に対しては否定的な態度をとっていたという(②)。

③ロベルト・ステファン・フォア、ヤシャ・モンク「民主主義の脱定着へ向けた危険」(世界2月号)
 ここに見られるのは一種の悪循環だ。
社会の分断が政治への不満を生み、政治を変革したいという願望が結果的に差別的な権威主義を呼び込み、さらに社会の分断を強化してしまう。
ロベルト・ステファン・フォアとヤシャ・モンクは、先進諸国で「民主主義への支持」や政治への関心が低下し、権威主義への支持が増えていることを指摘している(③)。

④後藤道夫「『下流化』の諸相と社会保障制度のスキマ」(POSSE・30号、16年)
 日本ではどうだろう。
サンダースが言うように、子供を大学に行かせられるかは収入の一つの基準である。
後藤道夫の推計では、大都市部で子供2人を大学に行かせた場合、年収600万円では、税金・保険料・教育費を除いた生活費が生活保護基準を下回ってしまう(④)。

⑤国税庁「民間給与実態統計調査」(2015年分、http://www.nta.go.jp/kohyo/tokei/kokuzeicho/minkan2015/pdf/001.pdf)
 では、所得が600万円以下の人は何割なのか。
国税庁の民間給与実態統計調査(2015年(⑤)によれば、15年の給与所得者4794万人のうち、600万円を上回るのは18%。
男性の給与所得者では28%である。
この数字だけから単純には言えないが、上位2割程度の所得がないと、子供2人を大学に行かせるのは苦しいといえそうだ。

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⑥森口千晶・大竹文雄 対談「なぜ日本で格差をめぐる議論が盛り上がるのか」(中央公論15年4月号)
 では日本でも、上位1%に富が集中しているのか。
森口千晶とエマニュエル・サエズは異なる見解を示している。
それによると、1990年代以降の日本で全体に占める所得のシェアが伸びているのは、上位1%ではなく上位10%の下半分、つまり上位5%から10%の部分だ。
そして2012年の所得上位5%から10%とは、年収約750万円から580万円の人々だという(⑥)。
なお同年の上位1%は年収1270万円だった。

 ただし森口らがいう上位10%は、無所得者を含む20歳以上の成人全ての中の10%である。
これは前述したように、給与所得者では上位2割に相当する。

 大ざっぱに言えば、以下のように考えられる。
日本社会は、全体に低所得化している。
そのなかで、大企業正社員クラスにあたる年収600万円以上の層が、上位10%として相対的に浮上している。
しかしこの層も、長時間労働にあえぎ、教育費がかさめば生活は苦しい。
結果として、社会の全ての領域で、大部分の人々が余裕を失っているのだ。

 そして余裕がなくなればなくなるほど、事態を直視するのが難しくなる。
自分の貧困も、他人の貧困も、「努力不足」「自己責任」と考えがちになる。
それは、社会の分断を強化し、自分の余裕を失わせる。
これでは悪循環だ。

⑦湯浅誠・阿部彩 対談「子どもの貧困問題のゆくえ」(世界2月号)
 こうした状況をどう打破していくか。
湯浅誠と阿部彩の対談(⑦)は、こうした悪循環から抜けだす可能性の一端を示してくれている。

 この対談は「子どもの貧困」特集の一環として行われたものだが、他の多くの問題にも触れている。
なぜなら「子どもの貧困」は、「親の貧困」や「地域の貧困」が、別の形で表面化したものに他ならないからだ。
さらにそこには、教育機関や行政機関などの、予算や知識や意欲の「貧困」も関わってくる。

 そうである以上、個々の子供に対する食事支援や教育支援だけで、問題を解決できるわけではない。
にもかかわらず湯浅や阿部がこの問題を重視する理由は、「子どもの貧困」は「本人の努力が足りないからだ」という自己責任論から免れているからだという。
そのため、多くの人に理解を得やすいだけでなく、活動を促す契機になるというのだ。

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 「大人(たいじん)」とは、社会の責任を負い、他者を助けるだけの余裕がある人のことだ。
それに対し「小人(しょうじん)」は、自分のことで精一杯の人を指す。
そして「大人」であるか否かは、資産や才覚の有無だけでは決まらない。
巨万の富があるのに他者も社会も顧みない「小人」はいる。
だが「子どもの貧困」の前では、誰もが「大人」の役割を引き受けざるを得ない。
そして、他者と社会を直視する余裕を、ひねりだす努力をするようになる。

 児童に食事を無償提供する「こども食堂」について阿部はこう述べる。
講演で貧困問題の統計や国際比較を語ると「会場に絶望感が漂う」。
だが「こども食堂」の事例を話すと「これなら私でもできるかもしれない」と人が動きだす。
そのとき人は「大人」になるのだ。"

 もちろん湯浅も阿部も、現実の厳しさは承知している。
とくに彼らが懸念するのは、政治の危機につながる社会の分断が日本でも生じつつあることだ。
だがだからこそ彼らは、地域活動を通じて「状況も意見も違う人たちが同じ問題について考えられるような土台」を築く意義を強調する。
そうした土台がないまま、政治のリーダーシップを期待しても、権威主義しか生み出さないからだ。

 サンダースは政治の役割について、こう述べている(①)。
「私のリーダーシップがなんでももたらすかのような話がありますよ。しかしね、それは人々を結びつけるという意味なんです」。
人が他者を思い、結びつくこと。
そこからしか、政治と民主主義の再生も始まらない。
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