2017年2月20日月曜日

明治39年(1906)6月30日 徳富蘆花(健次郎)、トルストイと会う。ヤスナヤ・ポリヤーナ村のトルストイの自宅に7月2日まで滞在。 

2017-02-15 鎌倉市役所前
*
明治39年(1906)
6月30日
・徳富蘆花(健次郎)、トルストイと会う。

6月26日、ルーマニアのガラツ(ダニューブ河口の港)に着き、その対岸のレニ町でロシア領に入る。そこから、ヨーロッパ・ロシアの中心に当るツーラの近くのトルストイ家を訪ねるために汽車に乗った。
27日キエフ着、29日クールスク着、30日夜中にツーラに到着。
そこから2つ目の駅、ゼキノという駅に下り、そこで少し休んで朝5時、駅でシャツをとりかえ、馬車でヤスナヤ・ポリヤーナ村に着いた。

そこはは小さい村で、藁葺、板葺の貧しげな家が並び、幅の広い道の真中に草が生え、犬が吠え、裸足の子供が立って見ていた。村の家並から道は低くなり、円錐形の屋根のある無人の番小屋のついた門があって、そこがトルストイの屋敷の入口であり、馬はそこへ入って行った。左手に周囲4町ほどの池を見なから、西洋杉や白樺など茂った間のゆるい登り道を1町あまり行くと、青く塗った屋根のある白壁の二階づくりの家があった。その家は北方に木立ちを負い、東向きに建っていた。一面に実をつけた林檎の木の下をくぐって、馬車はその家の入口にとまった。

6時。しばらくして、白い胸掛けをした八字髭の男が台所から出て来たので、手真似で、家の人々は眠っているのかと尋ねると、そうだという。蘆花は荷物を玄関の隅に置き、裏手に出た。そこは一面の林檎畑であった。池の方へまわって白樺の木の蔭に青く塗ったベンチを見つけ、ヘルメット帽を枕に、インヴァネスをかぶって仰向けになると、昨夜ツーラ着いてから寝ていないので、いつの間にかうとうとと眠り込んだ。

人の気配がして目を開くと、髭の白い大柄の老人がそばに立っていた。庭の掃除に来た百姓かと思ったが、見ると写真で知っているトルストイの顔だったので、彼ははね起きた。するとトルストイは「おお、君はトキトミ君」と英語で言って、歯の抜けた子供のような口もとに笑を浮べ、手を差しのばした。トルストイはイギリスへ行ったとき英語で講演したほどで、英語は巧みであった。

蘆花は、「ああ、あなたは先生」と言ってその手をしっかり握った。トルストイの手は大きくて温かった。このとき、トルストイは満87歳、蘆花は満37歳であった。

トルストイは蘆花の手紙に返事を出したが、それが遅れたので蘆花はそれを見ずに東京を発ったのだった。返事の遅れた理由をトルストイは英語で次のように言った。
「余は君に返事を出す前に余程考へたり。許されよ。余は君の手紙を信ずる能はざりき。其はあまりに喜ばしき手紙なりし故なり。故に余程考へて返書を書きたり。君の手紙に書きし所は真実なりや?」

トルストイは蘆花の絶対平和の思想を確信することができなかった。
蘆花は答えた。
「無論真実に候。真実なるが故に、露骨を許し玉へ、先生の存生中に一度先生に対面せむと推参致しぬ。先生の健康は如何?」         
「甚だ宜しからず。余の死期は遠からずと覚ゆ。皆死を恐る。然れども死は解脱なり、恐るべきにあらず」

トルストイの顔は紅潮しているが、髪も髭も白く、目は少しうるみ、歯が抜け、蘆花の思っていたよりも衰えていた。
この時、トルストイは「戦争と平和」を書いてから36年経っており、「アンナ・カレーニナ」を書いてからも30年経っていた。彼の芸術から宗教への転機となった「我が懺悔」を書いたのは24年前であった。その後は、宗教や倫理に関する著述が多かったが、小説としては20年前の1886年に「イワン・イリッチの死」を書き、16年前の1890年に「クロイツェル・ソナタ」を書き、7年前の1899年には最後の大作「復活」を書いた。20世紀に入ってから、著述活動はほとんど中絶していたが、世界の良心を代表する偉大な存在と見られており、専制帝国のロシアに於ても、その戦争反対の意見を拘束されることなく生きていた。

トルストイは蘆花を連れて、林間の小道を下り、もう一つの池のほとりを話しながら歩いて行った。髪と髭の白い彼は、白っぽいダブダブした服に黒い革の帯をつけ、縁の広い夏帽子をかぶり、自然木のステッキをつきながら、10年前にここを訪れた蘆花の兄蘇峰と同行した深井英五の消息をたずねた。それから彼は言った。自分の余生はもう長くないが、一刻生きていれば一刻の義務というものがある。自分はいま政府と人民の関係についての著述をしている、と言い、また、土を耕して他の力に頼らずに生活する者が国の力というものだ、と語った。また彼は蘆花に、君は農業で生活することができないのか? とたずねた。蘆花は、私も農業は何より好きだが、今は土地というものを持っていない。しかし将来は少くとも半農の生活をするつもりだ、と語った。

2人は家のそばの広庭に着き、葉の伸びた楓の下の、白い布をかけられた食卓についた。銀のサモワールが音を立てて沸き、茶や菓子などが出してあった。トルストイは、20歩ほど離れた白樺の木立の中の小家を指差して、あそこの離れにゆっくり逗留しなさい、と言った。やがて下男が掃除が出来たと言って来たので、蘆花はその離れに行った。
入って直ぐの所に4畳半ほどの室、その次に10畳ほどの板張りのままの室があった。寝台、白木のテーブル、ソファ、箪笥、椅子三脚、常春藤(ふゆづた)の這い上った窓にはカーテンがかかっていた。窓の下に花壇があった。来客のために建てたもののようであり、さっぱりとして居心地は大変よかった。長旅の後に彼は落ちつきを感じた。

荷物を整理しているうちに、昼食を告げる鐘が鳴った。蘆花は昨夜ろくに寝ていないので、眠たかったが、さきほどの楓の木の下の食卓に行って、集った人々に挨拶した。トルストイの姿はなく、夫人がその卓を支配していた。トルストイ夫人ソフィアは62歳であったが、50歳ほどに見える体格のよい女性で、白いリンネルのブラウスの胸に藤色の襞飾りをつけたのを着ていた。

蘆花が、しばらく御厄介になります、と言うと、近いうちに長男の結婚式があり、それまでは構いませんから御遠慮なく、と答えた。蘆花は日限を切られたような気がしたが、これが正直な答というものだろう、と考え直した。客が多くてうるさいでしょう、と彼が言うと、ソフィア夫人は、慣れていますから、と言った。

トルストイ夫婦の間には13人の子供が生まれたが、現存しているのは8人で、その席には3人がいた。三男レオとその妻と2人の幼児、その妹で英語が上手な病身のマリア、その夫オボレンスキイ公爵、未婚の末娘アレキサンドラは22歳でこれも体格のいい女性であった。その他オーストリア人医師、トルストイの秘書ジュリア、アレキサンドラの学友などがいた。

昼食後、離れで休んでいると、トルストイが入って来て、テーブルの上の書物を見つけ、君はどんな本をもって釆たか、とたずねた。そこにあったのは「聖書」、袖珍版の四書、「パイロン詩集」、「山家集」、「パレスチナ案内」等であった。トルストイが四書の1冊を取り上げて、これは何か、とたずねたので、孟子の書だと言うと、私は孟子よりも墨子が好きだ、孟子が孔子の真意を理解することができなくて、墨子に論争しかけたのは惜しいことだ、と言った。その理解の広さに蘆花は驚いた。

トルストイは孟子や四書の話をした後、水浴に行くから一緒に来ないか、と蘆花を誘った。途中、トルストイは戦後の日本人の精神状態を訪ねた。
蘆花が、戦争は悲しむべきものだが、戦争が人を真面目にさせたのも確かである。東郷平八郎のような難局に当った人々はクリスチャンではないが敬虔で真面目を人間である、と語った。すると、トルストイは、白い眉の下で目から火のような光を発し、いや、自分はそう思わない、東郷等が敬虔な人間ならば、その敬虔だということは、狭隘な、事理を弁(わきま)えない頭を持っているということを証明しているだけだ、と言った。
しばらくして彼は、孔子が言っているではないか、一言以て智を表れし、一言以て愚を表わす、言葉に気をつけたまえ、とつけ加えた。蘆花はそのトルストイの言葉に不満であったが、後で考えると、大馬鹿者と叱られたのだと気がついた。

そのうち末娘アレキサンドラが馬車を駆って追いつき、二人を乗せて川の畔へ行った。川は6、7間の幅でS字を描いてゆるやかに流れていた。脱衣小屋があったが、女たちがそこに腰かけているので、トルストイと蘆花は川下の方の人気のない所へ行って、裸になり、水浴をした。

晩餐では、家族や多くの客の中で菜食はトルストイと蘆花の二人だけであった。菜食者のために、肉の入らぬスープと、クワス、胡瓜のサラダ、卵、アイスクリームなどが出された。

翌7月1日、トルストイの四男アンドレ(29歳)がこの家に着いた。蘆花はこの青年と語り合った。アンドレは、日露戦争に出征して奉天にいたことがあり、文学に志を持っていて幾つかの作品があるのだとのことで話が合った。アンドレは父を批評して言った。父の議論は理想ばかりを追って実際には適しない、今では父も優しくなったが、昔はとてもエゴイストであった、父の議論は独身者の唱えるべきもので、妻子のある社会人としてはあれでは困る、父は説教するばかりで何も実行しない、と。

この日、蘆花は母屋二階のトルストイの書斎を見せてもらい、そのあとでソフィア夫人と雑談した。夫人は、夫の思想は流行遅れになりました、いまではどこでも、革命、革命という騒ぎです、革命騒ぎはこのヤスナヤ・ポリヤーナの村まで入って来ていますから、いつこの家が襲撃されるか分りません、と言う。
蘆花はトルストイが著作権を放棄するとか、土地を農民に分け与えるなどと言って、妻子の反対に逢い、禁治産者のような扱いを受けていることを知っていた。

午後、水浴に誘いに来たトルストイは、元気なく、歩きながら語った。
「本当のクリスチャンは決して自分の財産というものを持ってはならない。この頃私は自分の著作からの収入を何も受け取っていない。ただ私は戯曲の上演料だけはもらっている。その外方々の友人が時々私に金を送ってくれるのだ。」
またトルストイは、自分は立論と生活環境が一致しないと言ってしばしば攻撃されるのだ、と言った。
それを聞いて蘆花に暗い猜疑心が起った。トルストイまでこんな愚痴をこぼすのか、あの苦しそうな弁解の下に偽善がひそんでいるのではあるまいか、彼の百姓じみた様子は道楽でしていることで、本当は貴族趣味なのではないのか? 彼の生活は芝居気たっぷりではないのか? しかし、彼はその衷心の苦悩を皮膚の色の違う友の自分に打ちあけただけかも知れない、などと蘆花は考えた。

蘆花はトルストイの家に5日間滞在した。その間、彼は毎日のようにトルストイと散歩し水浴し、トルストイに親しみ、ある時は彼を敬い、ある時は疑い、結局トルストイの人柄に限りない親しみを感じた。

蘆花ははじめ、トルストイに逢ってから西ヨーロッパ諸国とアメリカをまわって帰国するつもりであったが、予定を変更し、ロシアの首都を見て、シベリア鉄道で日本へ帰ることにした。トルストイは彼のためにペテルプルグとモスクワの友人に紹介状を書いてくれた。

7月4日の晩餐の時、彼はトルストイとその家族に別れを告げ、翌5日朝早く、トルストイ家の人々が起き出さぬうちに馬車で出発した。その日の午後モスクワに着き、翌日ぺテルプルグに着いた。
7月8日、またモスクワに戻り、10日ほど滞在した。
7月19日、モスクワからシベリア行きの汽車に乗り、27日イルクーツクで東清鉄道に乗りかえ、30日満洲里についてそこから満洲を横断し、8月1日夕方、ウラジオストックに到着。
翌8月2日、ロシア汽船モンゴリア号に乗り、4日、敦賀に上陸。そして5日朝、逗子の父の家、老龍庵に到着し、120日余の旅行を終えた。

トルストイは12年前の明治27年、小西増太郎と交際を始め、小西に協力して、「老子」を共訳したこともあり中国の古典に通じていた。小西は17、8歳の頃、何という理由もなくロシア語を学びたくなり、ニコライというギリシャ正教の僧が東京に設立したロシア語学校に学んだ。明治19年(1886年)春、彼は特命全権公使としてロシアに渡る西徳二郎に連れられ、南ロシアのキエフ大学で5年間の教育を受け、その後、モスクワ大学のグロト教授の下で心理学を専攻した。教授に言われて、彼は儒教を紹介することになり、「大学」を露訳した。それが大変賞讃され 雑誌に発表されたので、次に「中庸」、「孝経」を訳した。教授はその次に難解で知られている「老子」を訳して見ないか、と言った。モスクワの帝国図書館に原本が4種類あった。それによって小西が「老子」を訳している途中、グロト教授は彼を呼んで、いまモスクワに来ているトルストイがその訳に興味を持って援助したいと言っている旨を伝えた。

明治27年(1894)11月初め、小西はトルストイのモスクワの家へ連れて行かれた。そのときトルストイは、「老子」を数年前から英独訳で読んでいるが、その説き方が巧妙深遠で、大胆に深い哲理を述べている点は天下一品と思う。それで、そのよい露訳を得たい、と語った。その後小西は翻訳の進むに従って、トルストイの所へ原稿を持って行くと、トルストイは英、仏、独の訳本によって読み合せながら意見を述べ、その仕事に協力した。

「老子」31章の「夫れ兵を佳(よ)みする者は不祥なり、物或はこれ悪(にく)む、故に有道者は処(を)らず、・・・兵は不祥の器にして君子の器にあらず」という所へ来ると、トルストイは飛び上るように喜び、「ここまで極論する処が老子の偉く、尊い所だ。三千年前にこういう非戦論を高唱するとは、敬服の外ない」と言った。

11月末から12月末までの間に20日ほど彼はトルストイ家に通ったが、更に翌明治38年3月中頃までかかってその訳業を終え、その本は「老子の哲学、レオ・トルストイ監修、日本人エム・小西訳並序論」という名で刊行された。その年彼はオデッサから船で日本に帰った。

彼が日本へ帰ると、トルストイの弟子のような男がロシアから帰ったそうだ、という評判が立った。ある日、本郷教会の横井時雄が、トルストイの話を聞きたい、と言って彼を招いた。横井時雄は、横井小楠と矢島つせ子の間に生れた長男で、つせ子は蘆花の母、矢島歌子の妹であり、基督教矯風会の矢島楫子の姉である。また時雄の妹みや子は海老名弾正の妻である。トルストイの作品や思想が日本の智識階級の関心を呼ぶようになったのは、明治24、5年頃からであり、クリスチャンの間に特にそれが問題にされていた。

小西増太郎が本郷竹町の本郷教会の後庭の中にある横井時雄の家へ行くと、横井時雄の外に原田助、村井知至などが集まっており、少し遅れて徳富蘇峰と弟の蘆花がやって来た。それが緑となって、小西は「国民之友」にトルストイの翻訳を5、6篇載せた。その後、小西は「クロイツェル・ソナタ」を訳して蘇峰のところへ送ると、蘇峰からは、この小説は実に面白いが、訳文は手入れが必要だと思う、という手紙が来た。そのあとで、民友社から国木田独歩と名乗る編集者がやって来て、「クロイツェル・ソナタ」の訳文訂正は尾崎紅葉に頼んだ、と彼に伝えた。明治28年8月号の「国民之友」に尾崎紅葉訳としてその「クロイツェル・ソナタ」が「クレーツェロワ」というロシア音の題で連載されはじめた。
小西はそれを読んで、紅葉の訂正した文章は、実に立派になっていたが、原文にある凄味が抜けて、別な人の書いた作品のようになっていた。10日ばかり後、麹町2番町の小西の家に、33、4歳の、久留米絣に薩摩下駄をはいた書生風の男が訪ねて来た。男は私は紅葉のところにいる書生ですが、私の主人が蘇峰さんに頼まれて、あなたの訳した「クレーツェロワ」を訂正したのですが、その文章があなたの気に入ったかどうかを承って来るようにと申しましたので、と言った。小西は、「御訂正は立派で、よくなり過ぎたと感ずるほどです。喜んでいますが、ただ遺憾なのは、原文に溢れるようにある凄味が大いに減りました」と言った。書生はこれを聞いて帰って行った。その後間もなく、「太陽」の口絵に紅葉の写真が出ていたので見ると、あの久留米絣を着た書生が紅葉であった。そのとき紅葉は数え年29歳。

蘆花がトルストイに関心を抱いたのは、小西の話を聞く5年前の明治23年、数え年23歳の頃から。その年、彼は「国民之友」に「露国文学の泰斗トルストイ伯」という紹介文を書いた。更に翌24年、「トルストイ伯の飲酒喫煙論」を書き、25年秋には「戦争と平和」を英訳で読んだ。翌26年、彼は横浜まで「アンナ・カレーニナ」を買いに行って読みはじめた。またその翌年、彼は「我が懺悔」を読み、小西帰国2年目の明治30年4月、民友社の十二文豪伝の第10巻として「トルストイ」を刊行した。

伊藤整『日本文壇史』による
*
*

0 件のコメント: