2017年2月12日日曜日

大正4年(1915)5月 中国各地で排日運動激化(漢口で日本商店襲撃など) 中国、日本の対華21ヶ条要求を受諾 石橋湛山と吉野作造の帝国下のデモクラシー論 松井須磨子「私はただ情愛に生きたい。情愛の人として、それを楽しんで死にたい。」 イタリアの参戦 関東都督府官制改正に関する意見書」「満州駐剳陸軍に関する意見書」 内務大臣大浦兼武、選挙違反・収賄罪容疑で告発  

江ノ島 2017-02-03
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大正4年(1915)5月
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・中国各地、排日運動が激烈化(下旬)。
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・高野(山本)五十六、長岡藩家老家系山本家の相続人となる。
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・川上貞奴(44)、「サロメ」。上演。井上正夫共演。
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・与謝野晶子「地方人の生活」(「太陽」)。
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・伊藤野枝(20)、辻潤が野枝の従妹と関係を持ったことを知りショックを受ける。
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・谷崎潤一郎(29)、石川千代と結婚、本所区向島新小梅町4番地16号に新居を構える
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・フランス社会党代議士アルベール・トーマ、軍需省次官就任。
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・ロシア、親イギリス派外相ペトロフ辞任。親ドイツ独派シュトルメル、後任('16/8月、首相就任)。
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・ロシア、食糧騒動激しくなりモスクワでドイツ人に対する、下層市民によるポグロム発生。
「大衆は批判から行動へ移っていく。怒りはまず食糧騒動にはけ口を見いだし、それはあちこちで局地的反乱の形をとる。女性、老人、未成年は市場や広場で、工場の兵役義務労働者よりも自由で大胆にふるまった。モスクワでは五月に運動はドイツ人にたいするポグロームとなって爆発した。それに参加した者は主として、警察の庇護を受けて動きまわる都会のならず者であった。とはいえ、工業郡市モスクワでポグロームが起こりえたということ自体、平静を失った都市の下層住民に労働者が自分たちのスローガンや規律を受けいれさせるほどにはまだ目覚めていなかったことを証明している。食粒騒動は国中にひろまって、戦争による催眠状憩を破り、ストライキに道を開いていく。
工場への非熟練労働力の流入と戦争利潤のあくなき追求のせいでいたるところで労働条件の劣悪化が生じ、もっともあくどい搾取方法が復活した。物価の上昇で賃金は自動的に低下した。経済ストは大衆の不可避的な反射行為であった。それは長く抑えつけられれば抑えつけられるほど、はげしくなった。ストライキには集会、政治的決議の採択、警察との衝突、しばしば発砲や犠牲がともなった。」(トロツキー『ロシア革命史』1)
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・ドイツの技術者アントニー・フォッカー、プロペラ同調機構を発明。
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・ドイツ、人工硝石の製造が始まり、火薬と肥料に使用。チリの硝石貿易、海賊と代替品の製造により大損害を被る。
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・トロツキー家族もパリに移り共に住む。「フランス社会党は完全な士気阻喪状態にあった。ジョレスの抜けた穴を埋めるものは誰もいなかった」。
パリでマルトフび会うが、マルトフは対立し、「ナーシェ・スローヴォ」編集部を脱退、寄稿者グループからも外れる。
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5月1日
・中国側の21ヶ条の最終修正案提示。
4月26日に日本から提出された21ヶ条要求最終修正案を拒絶。最終対案を日置駐華公使に交付。旅順・大連租借等の期限延長や南満州における土地商租権(賃借権)等を認めたものの日本の要求とは隔たりがある。
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5月1日
・台湾銀行スラバヤ支店開設。
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5月1日
・電気化学工業設立。
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5月1日
・明治神宮造営局官制公布。
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5月2日
・中国、貨幣兌換所暫行条例施行。
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5月2日
・オーストリア軍、ゴルリツェを突破。ロシア領内に侵入。塹壕戦が1年間続く。
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5月2日
・ドイツ・オーストリア軍、ガリチアで攻撃開始。6月末までに100マイル以上前進。
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5月3日
・イタリア、3国同盟条約を破棄。
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5月4日
・イギリス大使、日本の対華要求第5号による日華交渉決裂を回避するよう加藤外相に警告。
午後7時15分、外務次官松井慶四郎が英大使グリーン宛の英外相グレーの訓令を示す。
英外相は、「日支交渉」で「今尚未決ニ属スル」のは第5号条項と聞く、と述べ、「予ハ之ガ為二、日支ノ国交破裂スルガ如キコトナカラムヲ、最モ切望スルモノナリ」。この際、「此等ノ諸点」の要求を撤回するか、誤解を解消する措置をとるよう、加藤外相に要請せよと、訓令。
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5月4日
・閣議、対華最後通牒案を決定(午前)。
元老大臣会議開催(午後)。
元老の意見やイギリス外相グレーの通告を考慮し第5号を削除(夜)。
6日、元老・閣僚会議、御前会議で決定。

2日、日置公使の報告電を受取った加藤外相は、午後2時、私邸に次官松井慶四郎・政務局長小池張造・通商局長坂田重次郎その他の幹部と対策を協議、最後通告発出を決める。
3日午前2時、最後通告文案完成。
午前9時、閣議招集。途中中断あり、午後3時最後通告発出を議決、案文も可決。
4日午後0時7分、山縣が小田原から到着。2時より、元老・大臣会議。山縣・大山・松方が出席(井上は病気療養中)。

山県はこうした事態を招いた責任は加藤外相にあると非難、加藤自ら全権を率い最後の談判を試みるべきでないかと正面衝突(元老の外交干渉を嫌う加藤外相への不満が爆発)。
会議直後、元老の危惧を裏書するかのようにイギリス外相グレーは第5条だけのために日中国交が決裂しないよう切望すると通告。
5日午前、大浦内相が調停、最後通牒から第5条を削る元老の意見を容れることで妥協。その夜の閣議では第5号を削除して最後通牒を出すことに決定。
6日午前10時、元老大臣会議。第5号撤回と最後通告発出を正式決定。午後0時30分、御前会議開催、正式決定。
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5月5日
・午後4時、中国の曹汝霖外交次長、5月1日の最終対案を取り消し、日置公使に「私見」としての妥協案を提出。
曹次長は、袁大総統・陸外交部長と相談して、前日、知人の「報知新聞」特派員桑田豊蔵を通じて、中国側対策を修正するので会議を再開して欲しい旨、日置公使に提唱。正式の申し入れでなければ応対できぬ、と拒否され、改めて「陸総長ノ代理」として日本公使館を往訪。曹次長は、5月1日の中国側回答・対案を取消す、日本案について「考慮ヲ加フ」るので会議を再開してほしいと、「公式二」申し出る。この時、日本では丁度第5号放棄に基づく最後通告文を閣議決定つつつある頃。
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5月6日
・石橋湛山「禍根をのこす外交政策」(「東洋経済新報」同日)。
「吾輩は我が政府当局ならびに国民の外交に処する態度行動を見て憂慮に堪えないものがある。その一は、露骨なる領土侵略政策の敢行、その二は、軽薄なる挙国一致論である。この二者は、世界を挙げて我が敵となすものであって、その結果は、帝国百年の禍根をのこすものといわねばならぬ」。
「我輩は対支交渉開始以来、邦人が調子を揃えて支那を侮蔑し、恫喝した軽薄、無遠慮、不謹慎な言論に冷汗をかかせられ、つらい思いを今もさせられつつある」。このような「虚に乗じて行うた「支那緊擾政策」を戦後に至っても西欧列強は看過するであろうか」。
「かつて世界が日本の手を以て、極東に跋扈した露国の頭を叩かせたように、これらの諸国は日英同盟の破毀を手始めに、何国かをして、日本の頭を叩かせ、日本の立場を顚覆せしむるか、それとも聯合して日本の獲物を奪い返す段取りに行くのではなかろうか」(「我が国の領土侵略主義」の行方を見事に予測)。
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5月5日
・イタリア作家ダヌンチオ、参戦主張。
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5月6日
・午後7時、中国の曹外交次長、新譲歩案を提出。
中国政府が密かに期待している列強干渉はおこらず。欧州の戦局に忙殺された英・仏・露3国公使は、日本と武力抗争を試みるのは賢明でないと袁世凱に忠告。列強の支援に依存している袁政権には対日譲歩論が強まる。
この日、中国政府が申し入れてきた譲歩案は、最後通牒の要求よりも日本に有利であったが(第1~4号で中国側が修正要求した大部分を取り下げ、第5号についても、顧問・兵器・布教権を他日の協議にまわすかわりに、福建省問題の他に中南支鉄道、学校・病院の土地条項も同意)、既に最後通牒と決めた日本政府はこれを拒否。
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5月6日
・御前会議の後、海軍、第2艦隊・第1艦隊第3戦隊に所属する艦艇34隻に出動命令。行先きは揚子江・馬公・シンガポール・秦皇島・青島などが指定、揚子江付近に17隻が配置され、第一義的には、日本人居留民の引揚げ保護の為だが、「日支開戦」の即応態勢でもある。
陸軍も、満州守備の第13、17師団、独立守備隊、朝鮮駐留の第9師団に、「応急準備」を下令。
また、関東州(遼東半島)・南満州鉄道付属地に戒厳令と徴発令を施行する「勅令第七十三号」も布告。
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5月6日
・アメリカ、イギリス・フランス・ロシアに日華交渉への共同干渉提議。3国、拒絶。
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5月6日
・アメリカ国務長官、非公式に大隈首相と袁世凱にメッセージ。日華交渉の穏和解決希望。8日、アメリカ大使から手交。
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5月7日
・日本(日置公使)、中国政府(陸徴祥外交総長)に21ヶ条要求の最後通牒(9日午後6時期限)を提出。
9日午前1時、陸外交総長・曹次長、日本の対華21ヶ条要求を受諾。以後、中国はこの日を国恥記念日とする。25日、調印。

21ヶ条要求に基づく条約公文が調印された後も、中国政府はこれにもとづく権益行使を合法的に妨害。
6月、懲弁国賊条例を公布。外国人への土地賃貸を死刑をもって禁止され、規定は事実上空文となる。

吉野作造でさえ「だいたいに於て最少限度の要求」とし、「日本の生存のためには必要欠くべからざるもの」とする。しかも、第5号削除は「甚だこれを遺憾とする」とする(「日支交渉論」1915年))。
批判は、「露骨なる領土侵略政策と軽薄なる挙国一致論の跋扈」をいう石橋湛山(「禍根をのこす外交政策」(「東洋経済新報」1915年5月5日)以外は殆どなし。
民本主義者の対外認識は、植民地主義との対決には甘く、帝国下のデモクラシー論としての困難を、ここでもみせる。
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5月7日
・ドイツ潜水艦「U22」、キンセール沖でイギリス客船「ルシタニア号」無警告撃沈。乗客死亡1198(うち米人128、子供94)。アメリカの反ドイツ感情高まる。アメリカの対ドイツ参戦の遠因。国務長官ブライアン、対ドイツ抗議に反対・辞任。後任ランシング。
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5月9日
・イタリア、ドイツ特派使節エルツベルガー、追放。
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5月9日
・連合軍、アルトワで第2次攻勢(~6.18)。
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5月10日
・友愛会緊急協議会、アメリカの排日運動緩和のため鈴木会長の派米決定。6.19 出発。*
5月12日
・高野岩三郎、「統計学研究」刊行。
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5月12日
・イタリア、ローマ、参戦の大示威運動。
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5月12日
・南アフリカ連邦軍、ドイツ領南西アフリカの首都ウィンドフークを占領。
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5月13日
・漢口で日本商店襲撃事件発生。日本人5名、重傷。漢口商人の排日運動激化。18日、三菱支店焼き打ち。
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5月13日
・アメリカ、中国・日本両国に対し領土保全・門戸開放などに違反の場合、両国間条約(日華条約)不承認通告(5.11付)。
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5月13日
・イタリア、「輝く日々」という参戦示威運動高揚(~5.16)。
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5月13日
・ウィルソン米大統領、ルシタニア号を撃沈に関して独に抗議の覚書。
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5月14日
・政府批判の演説会。
14日、赤坂演伎座で開催された「国民外交同盟会」の演説会では、政府の威力外交が批判の対象となる。
翌日の市村座での「対支外交同盟会」演説会では、加藤外相の譲歩外交が槍玉、政友会代議士堀切善兵衛が、「加藤(外相)は、前年はカリフォルニア州の土地問題で譲り、今年は青島を支那に譲れり。次は、南洋も何国かに進呈すべし」と非難。
18日、築地・精養軒で「対支外交研究大会」。国民党総務犬養毅その他の弁士が、政府は「内閣有るを知って国家有るを知らず」式の熱弁。場内からは、「内閣倒せッ」の叫び。
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5月14日
・イタリア、首相サランドラ、辞表提出。国論不一致のため。16日、国王、辞表不受理、参戦派のサランドラ支持の意志表明。20日、議会、圧倒的多数で参戦動議可決。
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5月14日
・ポルトガル、民主党・自由主義派軍人反乱。~15日。11月、総選挙で再びアフォンソ・コスタ内閣成立。ピメンタ・デ・カストロ首相の親ドイツ独裁政権(1915年1月28日~)終焉。
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5月15日
・この日付古島一雄の日記。
「五項二十一ヵ条、仔細にこれを検すれば、はじめより加藤式ならざるものあり。さらにこれを詳言すれば、陸軍の要求を容れたるのあと、歴々掩うべからす。加藤の剛腹を以てして、容易にこれに応じ、容易にこれを提起す。その微旨知るべきのみ」

前年8月17日「鄭家屯事件」の際、福島関東都督は加藤外相に、「関係者の処罰」「負傷者に対する撫恤金の支払い」のほか「満蒙における日本人の居住権」「不動産の所有権」「鉱山採掘権の獲得」など、21ヶ条要求に盛り込まれる権利要求が書きこまれる。
この段階で既に、満蒙では居住地外に住む日本人は多く、中国人の名義を借りて土地家屋を持ったり、鉱業経営をする者もかなりある。日本人からみれば既得権・既成事実だが、条約上の措置がなく、ここで一気に問題を解決しょうとする。
10月1日、関東都督が福島安正から中村覚男爵陸軍大将に代る。中村都督は、前任者の要求を上回る要求を加藤外相に上申するが、加藤は拒絶。10月1日付電報は「はなはだその体を得ざる次第」であるから考えなおせと、訓戒口調。
ところが、12月3日北京公使に伝達した21ヶ条の要求の内容は、「警察の日中共同化」など、福島・中村の上申書を上回る程度のものになっている。
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5月16日
・この日付「大阪毎日」の松井須磨子のインタビュー記事。
「世間のことは殆ど理屈や善悪より情愛で動いているのではないでしょうか。私はただ情愛に生きたい。情愛の人として、それを楽しんで死にたい。・・・もし舞台を退いたら可愛い女の子を一人抱いて、うっとりとした心で人生を辞したいと思う。」
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5月17日
・第36特別帝国議会招集(~6月10日)。20日、開会。
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5月18日
・与謝野晶子、評論集「雑記帳」(金尾文淵堂)。
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5月19日
・東京府下野方村、豊多摩監獄が完成。
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5月20日
・ドイツの6大経済団体、宰相に北フランスなど占領地の併合を求める要望書を提出。
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5月22日
・イギリス軍、イープルの戦い(4.20~5.24 ベルギー)で春季攻勢開始。双方に大量の死者。ドイツ軍、毒ガスを使用。
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5月23日
・この日、「第三帝国」読者大会、3~400名が集まり、読者の5分間演説がはじまる。
「次ぎは朝鮮の金錣洙君(のち朝鮮共産主義運動の著名人物)、拍手に送られて演壇に出て来る、東洋は東洋人の東洋である、支那は支那人の支那、印度は印度人の印度だと叫ぶ、と聴衆から悲痛な声で朝鮮は朝鮮人の朝鮮だと応援する、同君は大きく受けて然りわがものである。野次はノーノーと猛りたつ、同君は尚もわが家はわがものであるとて屈しない。」
朝鮮問題を自由に論ずる場を作り出す見識、それを野次る青年もいる。
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5月23日
・東京フルハーモニー会管弦楽団、第1回演奏会。
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5月23日
・イタリア、対オーストリア・ハンガリー宣戦布告
秘密条約を背景に。ドイツ・オーストリア・イタリア3国同盟離脱、トルコ国交断絶。南部戦線開かれる。
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5月23日
・民族主義グループ、ダマスクス議定書を作成。
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5月24日
・ドイツ、イタリアと国交断絶。
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5月24日
・初のパン・アメリカン金融会議、ワシントンで開催。
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5月25日
・外交総長陸征祥と日本駐華公使日置益、中日新約の仮締結
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5月25日
・関東都督府中村(大将)都督、岡市之助陸相宛に「関東都督府官制改正に関する意見書」「満州駐剳陸軍に関する意見書」を送る。

「関東都督府官制改正に関する意見書」:
中村都督は、①関東都督府および註剳師団司令部と軍隊主力を旅順から奉天に移すこと、②満鉄付属地の一般行政はもちろん、満蒙一帯の在留百本人に対する警察・司法・行政・外交の全てを関東都督の職権に移すことを主張。
①は、ただロシア占飯時代の兵舎などが利用できるという理由だけから、満州の先端に位置する旅順に根拠をおき、兵力も北に薄く南に厚くしているのほ、ロシアに備えるという日本の目的にそむくから、南満・東蒙の中枢である奉天にこれを移した方がよいというもの。
②は、関東都督の許に権力の一元化を図るという、古くて新しい問題の提起。
「満州駐剳陸軍に関する意見書」:
駐剳師団(1師団)の最北端を、現状の公主嶺から長春まで進出させる具体案を具申。
さらに中村の8月1日付「南満州及び東部内蒙古の境界に関する意見」も送られる。それは、元来中国人には南・北満州、東部・西部内蒙古という概念上区別はなく、この区別は日本人がロシアに対して自分の勢力範囲を示す為の便宜から持ち始めたという発想にもとづくもの。そして南・北満州の境界線を第一松花江まで北進させ、奉天・吉林両省の全部を南満州に含ませ、更に東部内蒙古は、哲里木盟・卓索図盟・昭鳥連名・錫林郭勒盟の東四盟と察哈爾部の左翼四旗を境城とするならば、21ヶ条条約の満蒙に関する条項の適用範囲は広くなるはずだと結論する。

同時に陸軍大臣岡市之助に宛てて「満州における文武行政機関の改正」について意見具申。中村大将は満州の行政が都督・領事・満鉄の三頭政治となっているのは不都合だから満鉄付属地に領事館と理事庁をおいて、領事と庁長を関東都督に隷属させてはどうかと述べる。
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5月25日
・政友代議士野村常右衛門(政友会「選挙不当行為調査委員会」主務者)、内務大臣大浦兼武を選挙違反と収賄罪容疑で告発。

村野が告発したのは、大浦が丸亀市から立候補した白川友一の対立候補(立憲同志会の元代議士加治寿衛吉)を辞退させるために尽力し、白川から1万円を収受したということ(実際には、加治元代議士は改めて立候補し落選。大浦は有権者に白川推薦状を送付)。
白川は前議会で議員17名と政友会を脱党して大正倶楽部を作っており、何らかの事情が伏在が予想される。
検事局の取調べで、大浦が前議会で増師案を通過させる為に政友会の代議土を買収・脱党させたことが発覚。議員買収の折衝には、粋人翰長の仇名のある衆議院書記官長林田亀太郎あたり、林田は前年12月20日前後に大浦農商相から4万余円を受けとり、白川・増田穣二両代議士を通じて政友会代議士15名を買収し、増師案に賛成させた。

逮捕された白川派運動員が、違反行為を余儀なくされたのも出馬断念を翻した加治候補の不徳義と1億円を貰いながら加治候補を引退させない大浦内相の欺瞞のおかげと憤慨、予審でことの経緯を告白。
5月24、25日、予算委員会で政友会代議士横田千之助が本件について質問すると、内相は知らぬ存ぜぬと突っぱね、大隈首相も証拠があれば訴えよと反発。
25日、政友会村野総務、弁護士今村力三郎・塩谷恒太郎と検事局に出頭して内相告発手続き。
6月5日、大浦内相不信任決議案提出。7日、政友会元田肇が提案理由説明。特別審査委員会に廻され、内相不信任案に根拠なしと票決。本会議でも否決。
8日、内閣不信任案提出。政友会床次竹二郎が理由説明。野党退場など混乱の末不信任案否決。
9日、第36議会閉会。

検事局の取調べで内相の「議員瀆職」事件発覚。
前議会での内相による白川代議士など政友会脱党派を買収。
6月27日、白川・板倉ら代議士・前代議士20数名が拘引。
7月28日、衆議院書記官長林田亀太郎、東京地裁で10時間の取り調べ後、「瀆職幇助罪」で逮捕収監。
29日、大浦内相、辞表提出、ついで全ての公職を辞めて隠居。30日、大隈内閣も辞表を提出するが元老会議が留任勧告。内閣では加藤外相が連帯責任の見地から総辞職を主張、尾崎らはこれに反対。
10日、加藤・若槻・八代3大臣が辞職し、大隈内閣は改造して留任。     

大浦内相は政界引退するも情状酌量により起訴猶予。林田・白川らの起訴と比して不公平。買収に用いられた4万余円の出所も追及されず。当時機密費を持つのは内閣・内務省・司法省だけで、大浦は当時農商相のため、追及次第では大隈内閣全体が火の粉をかぶることも予想される。
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5月25日
・日中両国間で条約および交換公文に調印(対華21ヶ条要求)。
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5月25日
・イギリス、アスキスによる自由・保守連立内閣成立。
戦争指導のため閣内に戦争委員会を設置。7月軍需省を設置。ロイド・ジョージ、初代軍需相に就任。
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5月25日
・アルゼンチン、ブラジル、チリのABC条約が締結.
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5月26日
・日置駐華公使、青島還付を声明。
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5月26日
・岡山県都窪郡帯江鉱山の鉱夫150人、請負賃金補充などを要求してストライキ。
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5月26日
・イギリス海相ウィンストン・チャーチル、オスマン帝国領ゲリボル半島上陸作戦失敗責任により解任。
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5月27日
・帝劇洋劇部、オッフェンバックの喜歌劇「戦争と平和」(武無大将)上演(~6.2。小林愛雄訳詞)。
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5月27日
・アメリカ、金決済基金制開設。
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5月28日
・セイロン島、暴動発生(~6.5)。
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5月29日
・兵庫県宍栗郡山崎町、人力車車夫70人、乗合馬車駐車場設置に反対してスト。
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5月29日
・ポルトガル、ヨアキム・テオフィロ・ブラガ、大統領就任(~8月)。
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5月29日
・連合国、ブルガリアに対しマケドニアの譲渡を提案。ブルガリア、受諾せず。
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5月31日
・深夜、ドイツ陸軍飛行船ツェペリン、ロンドン初空襲。
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5月31日
・ロンドン、オペラハウス、プッチーニ「蝶々夫人」上演。三浦環。初の日本人プリマドンナとして出演。
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