2017年7月17日月曜日

大正15年/昭和元年(1926)1月 歩兵第24連隊事件 中国国民党2全大会 朝鮮総督府新庁舎竣工 京都学連事件(治安維持法違反第1号) 共同印刷争議 加藤高明首相(66)病没 第1次若槻内閣成立

鎌倉、長谷寺
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大正15年/昭和元年(1926)
1月
・山本五十六、駐米大使館付武官。~昭和3年3月迄。
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・政友会田中総裁に対し48万円支払い請求訴訟。
政友会入りに先立ち田中から300万円調達依頼をうけ、神戸の金貸乾新兵衛から引き出すことに成功したという佐藤繁吉が、約束の報酬支払いを請求。
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・川上貞奴「川上児童楽劇団」、帝国劇場第1回公演。
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・日本交響楽協会、日本青年館で第1回公演。近衛秀麿指揮・ベートーベン「英雄」。
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・長谷川伸ら、「大衆文芸」創刊。
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・川端康成「伊豆の踊り子」、志賀直哉「山科の記憶」、葉山嘉樹「セメント樽の中の手紙」、芥川龍之介「湖南の扇」、柳田国男「雪国の春」
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・宮沢賢治(29)、童話「オツベルと象」(尾形亀之助編集「月曜」)。
15日、岩手国民高等学校が開校し、「農民芸術論」を講義。
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・~2月、谷崎潤一郎(41)、上海へ旅行(「上海交遊記」「上海見聞録」)。
内山完造の仲介で郭沫若・田漢らと「顔つなぎの会」を持つ。谷崎は、偏見無く彼らの意見を聞き、正確に伝える。
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・独、ドイツ国家人民党アルフレート・フーゲンベルク(元クルップ製鋼専務)、「ローカル・アンツァイガー」紙にシュトレーゼマンを「ドイツ・ブルジョア階級の災難の種」と評す
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・ソ連、トロツキーがジノヴィエフ=カーメネフと連合するのを防ぐブハーリンの遣り取り
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・~2月。ソ連、レニングラード、党機構のパージ
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1月1日
・中国国民党第2期全国代表大会(4~19日)開幕式典(広州)。茅盾、参加(3月に上海に戻る)。
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1月1日
・歩兵第24連隊事件。差別糾弾に対し「福岡連隊爆破陰謀」のフレーム・アップ。松本治一郎ら懲役3年半
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1月2日
・新潟県新発田、農民青年学校開校。
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1月3日
・ギリシャ、1925年6月25日クーデタを起こしたセオドロス・パンガロス将軍、1925年9月30日制定共和国憲法を廃止し独裁権握る。~8月22日、成果上がらず失脚。
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1月4日
・国民党第2回全国大会(2全大会)、代表256人中共産党員90人。広東。
西山会議派(党籍剥奪)等右派欠席。
軍掌握の蒋介石・左派の汪兆銘・大衆組織基礎の中共の協力体制。
汪兆銘中央執行委員会主席・政治委員会主席・国民政府委員会主席・軍事委員会主席。
宣伝部長代理毛沢東、36人中7人の執行委員が共産党員。
宋慶齢中執(最高位選出)。
ボロジン政治委員会顧問、<連ソ・容共・労農扶助>強調。
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1月4日
・イギリス、「寡婦・老齢年金法」発効。
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1月5日
・ドイツ、列車との無線電話サービスが開始。
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1月6日
・朝鮮総督府新庁舎竣工。足かけ10年、総工費640万円、総大理石(金剛山地の大理石)、5階建て、設計はゲオルグ・ランディと野村一郎。正宮「景福宮」の真ん中の、正門「光化門」と正殿「勤政殿」の間の10万㎡の敷地。
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1月6日
・独、ゲッペルス、自らの党綱領草案完成。シュトラッサーも別に作成
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1月6日
・ドイツ、ルフトハンザ航空会社、設立。
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1月7日
・仏、鄧小平、パリを逃れモスクワへ
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1月8日
・森英恵、誕生。島根県。
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1月8日
・アブド・アル・アジーズ、ヒジャーズ王国とナジュド王国の王であると宣言。
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1月9日
・全インド労働組合会議(AITUC)第6回大会開催(マドラス)。
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1月11日
・張作霖、東三省と北京政府との断絶を宣言。
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1月12日
・北京、治外法権撤廃についての国際会議始(~9.16)。
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1月12日
・東洋レーヨン株式会社設立。資本金1千万円、会長安川雄之助。
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1月12日
・パリ、パストゥール研究所、破傷風の血清、発見。
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1月13日
・小林多喜二より田口瀧子宛て手紙。
「「ホワイト・シスター」が入舟館へ来た。十五日からだ。行こう。二、三日に日を決めて行こう。(銀行の仕事の間にこの手紙を書いた)」

この頃の多喜二と瀧子
「一九二五年十二月、小林多喜二は田口タキを救い出した。田口は長橋の実家に戻り、二ヵ月後、奥沢に住んだが、一九二六年四月、若竹町の小林家に迎えられた」(『小林多喜二全集』第七巻「注」)
「ホワイトシスター」
『小樽新聞』(1926年1月17日付)に、「長いことファン仲間が待焦れていたリリアンギッシュの「ホワイトシスター」が十五日から入舟館に上映中である」と載る。

・1月14日付け小林多喜二より田口瀧子宛て手紙。
「啄木の歌にはいいものは非常にいいが、飛んでもなく変なものもある。それで、僕が一番すうと読んでみて、これならばと思われるのを選んでみた。」
多喜二がタキに貸し与えたものは、新潮社版『啄木全集』第二巻か。
「東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる」「頬につたふ/なみだのごはず/一握の砂を示しし人を忘れず」など64首をタキは後年まで暗記していたという(松澤信祐『小林多喜二の文学』)。
なお、多喜二一家が秋田から小樽に移り住んだとき、啄木は『小樽日報』記者として家族とともに小樽に住んでいた。2人は、1907年の3ヶ月ほど、小樽の同じ空気を吸っていた。

「曖昧屋」の酌婦タキ
1924年10月、社会人1年目の多喜二は田口瀧子と出会う。友達から「ヤマキ屋」という小料理屋にまれに見る美人がいる、と教えられて行ってみた。瀧子16歳、多喜二21歳のときである。
「小料理屋」とはいえ、本業は売春。対外関係を気にした明治政府は維新後、早い時期から売春取り締まりに乗り出した。娼妓解放令(1872年)によって「自由意志」に基づく娼婦のみ許可され、翌年には遊郭地が指定され、公娼制度が確立した。許可を得ていない売春は禁じられていたが、各地に私娼街はあり、黙認されていた。港町・小樽は遊郭や私娼街に富んでいたが、瀧子が置かれていたヤマキ屋はそれとは別で、「曖昧屋」という類の、銘酒屋やそば屋ののれんを掲げた、3、4人の酌婦を置いての商売だった。
8人きょうだいの筆頭の瀧子が15歳の時、父が商売に失敗し、売られた先、室蘭の「怪しげなカフェー」もその類。「怪しげなカフェー」は弟で小説家の宮野駿の表現(「哀しきルーツ探し」『月刊おたる』1992年10月号)だが、宮野の回想によると、これが瀧子の初めての唆昧屋体験ではなかったらしい。どうやら失敗した商売が、もともと酌婦を置いたそば屋だったらしい。(「田口タキ ー 逆説的な愛を貫いた誠実」『北方文芸』1982年4月号)。
父が鉄道事故で死亡すると、瀧子は小樽のヤマキ屋に転売された。弟妹のうち4人は別々に貰われ、まだ3人子どもを抱えた母は、まもなく日雇い労働者と再婚。

瀧子の身受けの金額は500円。250円は瀧子が貯めており、残り250円のうち、200円を多喜二が友人嶋田正策に借り、50円を自分が出した。嶋田に工面してもらった200円のうち、50円はすぐに返したが、残り150円は返さずじまいだったようだ。
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1月13日
・東京日日新聞社主催こども博覧会開催。上野公園。
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1月13日
・英、イラクを独立国と認めるものの、保護権は保持。
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1月14日
・独、ナチ党ハノーファー会議。グレゴール・シュトラッサー招集、綱領と王侯財産没収問題
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1月14日
・デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、紛争の平和的解決で協定締結。
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1月15日
・京都学連事件
治安維持法違反第1号。軍事教練反対のビラが撒かれた事件の疑いで京都帝大など全国の社研学生検挙。4ヶ月で38人起訴。川上肇(京大)・河上丈太郎(関学)・山本宣治(同大)家宅捜査。

15日午前3時、京都市内全刑事が川端・中立売署に召集。
6時活動開始。
7時半迄に京大社研淡徳三郎(大学院)、岩田義道(経3)、石田英一郎、熊谷孝雄(経2)、栗原佑、太田遼一郎、泉隆、白谷忠三、黒田久太(経1)、山崎雄次(法3)、橋本省三(法2)の12名と同志社社研内海洋一(経1)、大浦梅夫(高商3)の合計14名を検挙。
京大教授河上肇、同志社大講師河野密、山本宣治宅、農民組合事務所、京都地方評議会事務所、評議会の国領伍一郎、辻井民之助、半谷玉三、奥村甚之助、谷口善太郎、農民組合の森英吉、京大助手(新人会員)杉野忠夫宅が一斉に家宅捜索。
兵庫県では関西学院大教授河上丈太郎、松沢兼人、新明正道宅など10数ヶ所が家宅捜索。
東京では村尾薩男(東大文3)、清水平九郎(明治学院)、広谷賀真(慶応)が検挙。
18日京都で鈴木安蔵(京大経1)が追加。
26日、不敬罪にも問われている石田を除く17名は出版法違反・治安維持法違反で起訴、予審に付せられる。

27日午後から第2次検挙。
夕方迄に京大社研逸見重雄(経3)、鷲谷武二(文2)、古賀二雄(法1)、藤井米三(経卒)、同志社社研宮崎菊二、沢田政雄(経一)、小崎正潔(関西学院)、蓬台恒治(神戸高商)の8名、翌28日黒川健三、原田耕(大阪外語)の2名が検挙。
後、検挙は4月中旬まで続く。
京都社研では武藤丸楠(経1)、池田隆(医2)、大橋積(経卒)、東大新人会では是枝恭二(文2)、松本篤一(文2)、後藤寿夫(林房雄、法3)、実川清文(日本大)、秋笹政之輔(早稲田高等学院)、野呂栄太郎(慶応卒)、上村正夫(京都無産者教育協会書記)が検挙。

9月になって記事解禁となる。
マルクス・レーニン主義を指導精神として学生社会科学運動を進め、学生・労働者・農民にマルクス・レーニン主義教育を施そうとした事は、無産階級の権力掌握と私有財産制度破壊を図るもので、治安維持法違反とされる。
翌昭和2年4月、京都地方裁判所は、出版法違反・不敬罪関係を特赦し、治安維持法だけを適用、全員に禁錮8ヶ月以上1年以下の刑を宣告。治安維持法を悪法として非難する声は、美濃部達吉・長谷川如是閑・矢内原忠雄・森戸辰男など多く人々からあがる。

「一月に入ると、学聯第二回大会の秘密会合に出席した三十八名の学生活動家が検挙された。物情騒然という空気であった。新人会員では是枝恭二、後藤寿夫(林房雄)、村尾薩男、松本篤一が検挙された。そこで新人会では幾組かの陳情団を組織して、検挙反対の活動をはじめた。私は西田信春と組んで、中央公論社の嶋中雄作、法学部の美濃部達吉教授、文学部の春山作樹教授を受持っ。嶋中は、検挙反対のための行動をとることを快諾してくれた。美濃部教授は、後藤が憲法の答案用紙に「ブルジョア憲法何するものぞ」と書いたことを非難し、学説として論ずるなら、たとえ美濃部学説に対立するものであろうと、それ相当の点数を与えるのに吝かでないが、後藤のように、大学に籍を置きながら勉学の志を欠き、いたずらに慢罵の言辞を並べるような不真面目なものを、学内にとどめるわけにいかないだろうと言った。私たちは、この検挙は思想にたいする弾圧であることに抗議し、すくなくとも事件が結審を見るまでは、大学当局が処分をしないことを陳情にいったのである。後藤の答案がいかにも軽薄であったことは私たちも恥かしく思う。しかし、司法当局は、後藤の勉学態度が真面目を欠くから検挙したのではないだろう。問題はこの不当な抑圧にたいして大学が真理探求の場にふさわしい態度をとることであるのに、第二義的な、いわば私憤にかこつけて、当局の弾圧を合理化するのは合点がいかないと抗議した。美濃部は黙りこくって、はっきりした意思を最後まで見せなかった。私たちは彼の態度に幻滅を感じながら引揚げた。学業をそっちのけにして運動に没頭している私などに、ほかの教師も同じような感情を抱いているかもしれないことに気づいた。春山教授はまったくわからず屋で、話にならなかった。」(石堂清倫「わが異端の昭和史」)。
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1月15日
・芥川龍之介、この日から約1ヶ月間、湯河原の中西屋旅館に静養するも、不眠症は癒えず。
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1月16日
・奥むめお主宰の職業婦人社、東京職業婦人懇談会を開催。
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1月18日
・東京市、失業者救済を開始、3500人を雇用。
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1月19日
・中国で奉天軍、山海関を攻撃。
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1月19日
・共同印刷争議。2300人、操業短縮反対スト。
20日、会社側、工場閉鎖・全員解雇で対応。スト破りを雇い操業再開。評議会は強力に争議を指導支援するが、3月18日敗北。「アジト」「争議日報」等の新戦術が用いられる。58日間。

共同印刷の前身博文館は、1924年の争議勝利後、全員が組合加入、評議会に加盟し、戦闘的組合として活躍。
25年12月、社長大橋新太郎は精美堂を合併して共同印刷株式会社を設立、組合との対決を期す。
8日、操業短縮発表、日本労働組合評議会が主導して争議。
2月に一旦妥結するが3月まで継続。
組合執行部として争議に関わった徳永直は、舞台を「大同印刷」とし、狭い地域にひしめき合って暮らす労働者の生活を小説「太陽のない街」に措き、「戦旗」(ナップ=全日本無産者芸術団体協議会機関誌)に連載。

中野重治(24)ら、新人会から派遣され働く。
前年暮、「静岡新報」新年文藝募集に応募した「愚かな女」が短篇小説の部の一等になり、賞金30円を得る。選者は室生犀星。この年始め、下谷区上野桜木町の新人会合宿に移る。のち、下谷区谷中清水町、本郷区森川町の各合宿に住む。

「この学聯事件反対闘争の最中に、共同印刷の争議がおこった。最近一年間に出版労働組合が指導する東京の印刷労働者の闘争は、破竹の勢いで前進し、組合員八千五百名と関東地方最大の組合になっていた。この組合の宣伝と教育の仕事を受持っていた書記の大島英夫は、繁忙をきわめるようになっていた。そのため私たちは、しばしば出版労働の各分会の研究会に出かけて、チューターの仕事をするようになった。高田幸松、中尾勝男、安村庸次の幹部クラスから、青年部の雨森卓三郎らにいたるまで、たくさんの活動家と知りあうことができた。そのなかに中野文夫がいた。尚夫の兄、武夫の弟で、海軍兵学校放校のあと、出版労働の仕事を手伝っていた。ベルベット地の背広を着こんだ快男子であった。そういえば、明治学院社研の美少年矢島直一もベルベットの服を着用していた。彼は矢島楫子の甥にあたった。
共同印刷の争議は三月ごろまでつづいたが、そのあいだ私たちは大島の指示で、毎日争議団本部に出頭し、労働者の分宿先との連絡や、毎日の研究会のチューターをつとめたりした。交通費や食事代は学生の自弁が多かったから、争議団としては助かったであろう。争議中の労働者は、共同印刷の工場を中心として、いくつかのお寺に分散して詰めていた。労働者数が多くて、一カ所に集中できないからの分宿で、夕方になると労働者は帰宅するのであった。これは結束を固め、ストライキからの脱落を防ぐために必要だったのである。共同印刷の経営者はいちはやくロック・アウトをしたため、どうしてもこのような組織形態をとったのであろう。連絡のためよく市電に乗ったが、車掌のなかには争議団員と察して料金をとらない人が多かった。争議が一カ月以上になると、全体の空気が沈んできて、闘争に何の進展もないことにたいするあせりも出てきた。そんなときに、重役の家にたいする放火未遂事件がおこり、富坂警察署が何人かの「容疑者」を逮捕し、それがますます拡大しそうになったとき、中野文夫が「自首」する結果になった。・・・争議団員もそうであろうが、応援にいっている私たちも気がめいる一方であった。連戦連勝の出版労働の闘争もここで一敗を喫すると、組合はほとんど瓦解した。大島のつくった組合員数のグラフは三百五十名に激減していた。ストライキには資本側から押しつけられたものもあって一様ではないが、労働条件の維持と改善よりも、もっと高度の革命的訓練といった思想もあるようで、ずいぶん考えさせられた。
共同印刷の争議中も、夜は新人会の班の研究会に出席しなければならなかった。テキストはレーニンの『左翼小児病』で、ドイツ訳と英訳本を使った。ドイツ訳には、アルカディー・マスロフの長い解説がついていた。マスロフはルート・フィッシャーとともにドイツ共産党の左派指導者であったから、当然長文のマスロフ解説から研究がはじまった。この特別研究会には、卒業して評議会で働いている冬野猛夫、門屋博、喜入虎太郎が出ていた。だからもう新人会の研究会ではなかったのかもしれない。はじめに私がマスロフ説の報告をすることになった。・・・私がやや大胆な意見を述べることができたのは、三人の先輩が札つきの福本派でなく、リベラルであったからで、水野成夫や中野尚夫や大間知篤三のいるところでは、けっしてこんな発言はできなかったであろう。いま一つ私の発言を勇気づけたのは、希望閣版の和田哲二訳『左翼小児病』(一九二六年九月刊行)が、発行まぎわにこのマスロフ解説を削った事実である。つまり先輩たちのあいだで、マスロフを疑問視する動きがあったのであろう。訳者の和田は、医学部の国崎定洞助教授のことで、ドイツ留学前に、この本と『国家と革命』(?)を訳出して、希望闇に預けていったということである。私は何の用事であったか、薄暗い衛生学の教室に国崎を訪ねたことが二度ばかりある。・・・この人は新人会員ではなかったが、目白時代の新人会本部に顔を出していたことは宮崎龍介から聞いた。国崎は卒業のとき恩賜の銀時計をもらった英才だという話がある。それがしだいにマルクス主義に接近し、新人会員を近づけ、ドイツ留学中にベルリン日本人共産主義者のあいだのリーダー格となり、モスクワの片山潜とも連絡をとっていた。それがヒトラーの把権後、フリーダ夫人と一子タツコとともに入ソし、満州事変後の極東政局の分析と、日本への共産主義文献の送付に努めた。三二年テーゼを日本に届けたりしたが、スターリンの虐政のもとで粛清された。それは後日のことであるが、新人会の医学生たちがのちに社会衛生学や労働医学で創造的な業績を残したのも、国崎に負うところが大きいそうである。(石堂清倫「わが異端の昭和史」)。
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1月19日
・独、第2次ルター内閣成立。外相シュトレーゼマン、国防相ゲスラー留任。27日、国会、ルター内閣信任。160対150、社会民主党130棄権。
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1月20日
・布施辰治、日本労働組合総連合会会長就任。1年半。右派の日本労働総同盟と左派の日本労働組合評議会の中間。
「反総同盟」で提携関係にある、関東の機械労働組合聯合会と関西の日本労働組合聯合が合同し結成(組合員3831人、会長布施辰治・主事坂本孝三郎)。
しかし、日本労働組合聯合内で会長問題で関西労働組合聯合会と純向上会が対立、日本労働組合聯合を解体して関西労働組合聯合会のみが総聯合に参加。
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1月20日
・東京中央電話局京橋分局で最初のダイヤル式自動電話制(ストロージャ式自動交換方式)実施。
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1月21日
・幣原喜重郎外相、議会の外交演説で中国における内政不干渉主義の励行と正当な手段による日本権益擁護の原則を表明。
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1月21日
・ソ連、ジノヴィエフの砦・レニングラードのプチロフ工場の態度急変。ジノヴィエフはレニングラード・ソヴィエト議長解任。
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1月22日
・加藤首相、貴族院議場で倒れる。
26日、若槻禮次郎内相を首相臨時代理(~28日)に任命。
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1月22日
・東京・淀橋、「産児制限」に関する書籍3000冊が出版法違反で押収。
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1月23日
・東京都主催第1回珠算競技大会。
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1月24日
・岩手県久慈町で大火。町の3分の2の2400戸焼失。
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1月25日
・スターリン、「レーニン主義の諸問題」発表。
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1月26日
・フランス・リヨン、イタリア共産党大会、テーゼが採択し、閉幕。
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1月27日
・北京関税会議中国全権、日本の協定税率希望を応諾と公文で回答。
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1月27日
・米上院、メキシコ関係改善を決議。
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1月27日
・電気技師ジョン・ベアード(38)、テレビ放送公開実験に世界で初めて成功。
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1月28日
・三浦梧楼(79)、没。
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1月28日
・加藤高明首相(66)、病没。内閣総辞職。
若槻禮次郎、内閣総理大臣に就任(臨時兼任)。29日、憲政会後継総裁就任。
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1月29日
・広東で排日暴動発生。
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1月29日
・ソ連、モスクワの全学生に軍事訓練の義務。
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1月29日
・ロマン・ロラン(60)、誕生日。『ヨーロッパ』誌第 2 月号はロラン記念号として特集。
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1月30日
・第1次若槻内閣成立。
加藤内閣閣僚留任、外相幣原喜重郎、内相若槻禮次郎(兼務)、蔵相濱口雄幸、陸相宇垣一成、海相財部彪、法相江木翼、文相岡田良平、農相早速整爾、商工相片岡直温、逓相安達謙藏、鉄相仙石貢。
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1月30日
・桐生市で大火。駅前の60戸焼失。
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1月31日
・黒色青年連盟アナキスト40人、東京・銀座で暴行。
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1月31日
・伊、政府の立法権拡大。首相の発した政令はそのまま法律となる。
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