2017年9月6日水曜日

憲法を破壊してまで戦争をしたがるスーツ姿の「子ども」は、今からでも遅くはないので、『野火』を読むべきでしょう。.....後世の人間はその多層的な編み目を必死に読み解くことで、戦争への戒めとすべきなのです。.....『野火』を読むこととは、日常化してしまった自分の行動や感情を、もういちど捉え直し、組み立て直し、再現する作業であると思います。.....(島田雅彦『100分で名著 大岡昇平 野火』)

8月のEテレ『100分で名著』は大岡昇平さんの『野火』だった。
解説は島田雅彦さん

小説の最後の部分、田村一等兵が東京郊外の病院で呈する苦言を引用して、島田さんは以下の様に続ける。(読み易さのため段落を施した)


 田村一等兵が - すなわち、大岡昇平がこのような苦言を呈するとき、「国益のため」「ならず者から日本を守るため」と単純かつ根拠のない理由から戦争を煽る人々の悪相が浮かびます。彼らは反戦を唱える人々を一方的に「平和ボケ」と決めつけたがりますが、戦争を遂行する国家に加担することがどれだけ危険か考えたこともない人の方がはるかに「平和ボケ」しています。
憲法を破壊してまで戦争をしたがるスーツ姿の「子ども」は、今からでも遅くはないので、『野火』を読むべきでしょう。

 「極限状況」や「飢餓」や「玉砕」といったコトバがあるから、われわれはその意味の表面だけをなぞるように便利に使っています。しかし、その実態を本当に理解しているわけではありません。
「戦争」というコトバもまた一般名詞として、好戦派も反戦派も子どもも使うけれども、誰も本当の悲惨さはわかっていない。
しかし、大岡をはじめとする戦争体験者が戦争を語るときは常に実感が前提にあります。戦争は始めるのはたやすいが、終えるのが難しいといいます。
それは安易な楽観と厳しい現実のギャップのことでもあります。
コトバで戦争を煽り、戦後は沈黙した文学者も少なくなかった中、検証作業を徹底し、現実に即したコトバを厳しく選べば、戦争の生々しい現実を他者に伝達できる可能性はある。
『野火』はそのようにして編まれたテクストだからこそ、後世の人間はその多層的な編み目を必死に読み解くことで、戦争への戒めとすべきなのです。

 さらに丁寧に読めば、これまで認識されていなかった隠された意味やイメージの発見ができるかもしれません。
『野火』を読むこととは、日常化してしまった自分の行動や感情を、もういちど捉え直し、組み立て直し、再現する作業であると思います。私自身に引き付けていえば、創作上の可能性が拡張される気がします。
塚本(*映画『野火』の監督)自身が主演しながら映画を撮ったように、私も小説家として、大岡昇平の事実への拘泥、本能と理性の探究の姿勢を受け継ぎ、歴史家にはできない細部の再現に努めたいとの思いを新たにしています。

【全4回の放映のうちの2回分】




【参考】


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