2017年9月27日水曜日

大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一らの虐殺(その6) 11月16日 第2回軍法会議 新たに加わった被告3人が甘粕単独犯行説を否定し、軍の関与を暗示する

大正12年(1923)
10月8日 第1回軍法会議のあと

■弁護側の忌避申請によって、判士の小川關治郎(陸軍法務官)が突然解任。代わって第4師団の告森果陸軍法務官が選任。

小川忌避の理由は、小川と殺害された宗一少年は縁戚関係にあり、審理に予断が入るのではないかという懸念からだった。だがそれは表向きの理由で、甘粕に対する追及が厳しかった小川をこのまま判士にとどめておけば、やがて軍上層部と事件の関連性も問われるのではないかと、軍上層部が疑心暗鬼にかられた疑いが濃厚である。
小川と宗一少年との縁戚関係とは、小川が、宗一の父親の兄嫁の妹の夫の祖父の従兄弟の養家先の孫という、一読しただけではとても頭に入らない遠い縁戚関係。こじつけというより難癖。
小川はその後、永田鉄山陸軍軍務局長が相沢三郎に刺殺された昭和10年の相沢事件、その翌年の2・26事件の軍法会議の判士をつとめるなど、軍の上層部にからむ厄介な事件ばかり担当させられた。

■鴨志田安五郎の自首調書(10月9日)
第1回軍法会議(10月8日)終了後、大杉栄の甥の橘宗一殺しには自分らが関与したとして、東京憲兵隊所属の鴨志田安五郎、本多重雄の両上等兵と、同じ東京憲兵隊に所属する伍長の平井利一の計3人が自首。
「私は大杉栄及伊藤野枝を殺害するには関係致して居りませんが、男児を殺したのであります。けれども甘粕大尉が若し事件が発覚した時は、自分と森曹長とで責任を負ふから汝等は関係ないと懇々(こんこん)云はれましたから、夫れを信じて居りました所、咋八日の午後当師団の軍法会議公判廷に於て甘粕大尉が男児を殺したのは自分でないと云ひ、又森慶次郎も男児の殺害に付ては何も知らぬと申立てましたから、甘粕大尉の言葉を信用して居たのを悔ひ自分の為したる男児殺害の事実を唯今申立てました次第であります」
■第2回軍法会議。11月16日、東京・青山の第1師団司令部。

森が陳述した大杉との会話
- 大杉とはどんな話をしたのか。
「大杉は自分も兵隊になろうとしたから、兵隊であれば今頃は少佐くらいになっている、外国では動乱があると軍隊から先に革命が起きるが、日本では軍隊が秩序維持の役割をつとめている、などと言っていました」

淀橋署との関係、淀橋署の関与について
森が淀橋署に行った際、同署の署員から大杉を憲兵隊の方でヤッツケてくれないかという話があったことになってるが、これは犯行幇助罪にあたるのではないかという疑いが出たため、淀橋署の署員2人を証人として喚問申請することが決まった。
申請は認められ、第4回軍法会議に淀橋署の松元伝蔵警部補と滋野三七郎巡査部長が証人として喚問され、甘粕や森と直接対決した。

ー 森が淀橋署に行ったとき、大杉はこの際ヤッツケた方がいい、と言ったことはないか
(松元警部補)「そんなことはまったく言った覚えがありません」と全否定。

ー 九月十五日に大杉を浦和付近に電報で呼び出し、甘粕に殺してもらう計画があったというが、真実を述べよ
(滋野巡査部長)「そのようなことはまったくありません。甘粕大尉の言うことは間違っています」と全否定。

これに対し森は、
「淀橋署で大杉を憲兵に殺してもらいたいといわれたことは間違いありません」
と真っ向から反論。

甘粕は、浦和付近で憲兵に殺害依頼云々に関して、
「淀橋署員は大杉をヤッツケてくれと確かにいいました」
とはっきり述べ、
「記憶がない、記憶がないでよく仕事がつとまるものだ」
と、不快感をあらわにした。

両者の言い分は最後まで平行線をたどり、淀橋署が大杉事件に関与していたという事実を立証するまでにはいたらず、真相究明はうやむやのうちに終わった。

最大の争点は大杉事件の軍上層部関与疑惑
判士は、甘粕が軍上層部との関連を隠しているのではないかと疑って、冒頭尋問から苛烈だった。しかし甘粕は、この殺害は軍とは関係なく、あくまで自分一己の考えからやったものとの主張を一貫して変えなかった。

ー では被告が指揮命令系統の違う森に殺害を手伝わせたのはなぜか。
「命令するなら(麹町憲兵分隊に所属する)自分の部下を使います。今度の事件は職務からやったのではなく、個人の考えでやりました。にも拘らず、私一人が罪を引き受けることができず、多数の被告を並べてしまいました。私の男はスタりました」
(甘粕は涙ぐみながら陳述。軍隊では、森に直接命令できるのは、上司の小山介蔵東京憲兵隊長(大佐)だけである。それを庇おうとすれば、甘粕は殺害は自分の意思だったと苦しい弁明をつづける以外にない。)

森への尋問。直属上司と事件との関係を尋問。
- 殺害前日に今日大杉をやらねばコレの機嫌が悪いと言ったのではないか。
(判士は、コレと言って親指を突き立てた。その仕種を見た傍聴席がどよめいた。)
森は動ぜず、
「そういうことはありません」
と突っぱねた。

- 部下の上等兵らに、殺害は司令官の命令である旨を話したのではないか。
(「司令官」は、福田雅太郎関東戒厳司令官(大将)と小泉六一憲兵司令官(少将)の2人で、福田は9月20日付けで突如更迭され、小泉と森の直属上司である東京憲兵隊長の小山も、同日付けで停職処分となっていた。)
「そういうこともありません」

しかし、宗一を殺したと自首してきた東京憲兵隊上等兵の鴨志田安五郎が、司令官から命令があったことをほのめかす陳述をした。
- 甘粕がすべての責任を負うと話したことがあるか。
「あります。上官の命令で決してお前たちには責任は負わさぬ、と申されました」

- それ以前に上からの命令だと聞いたことがあるか。
「大尉殿と森曹長殿が上官の命令だからやり損なうなと話していたのを聞きました」

同じく東京憲兵隊上等兵の本多重雄も、鴨志田陳述を補う供述をした。
- 被告が上からの命令だと聞いたのは、甘粕からか、森からか。
「森曹長からそう聞きました。森曹長からこれは司令官からの命令だから絶対に口外しちゃいかんと言われました」

判士は森の起立を命じた。
- 森! 司令官の命令だと言ったか。
森は言下に否定。
「言いません」

判士は、森と鴨志田、そして鴨志田につづいて宗一殺しの見張り役をしたと自首してきた東京憲兵隊伍長の平井利一を睨めつけ、
「森!そう言ったか。鴨志田!平井!そう聞いたか」
と語気鋭く尋ねた。
3人は声を揃えて
「いいえ」
と答えた。

判士は改めて、森曹長からこれは司令官からの命令だから絶対に口外しちゃいかんと聞いた、と証言した本多に詰問した。
-本多! 聞き違いではないか。
「いいえ、聞き違いではないと思います!」

平井も
「温厚篤実な甘粕大尉殿から殺人の見張りを命じられるとは夢にも思っていませんでした」
と、命令は軍の上層部からだったことをほのめかす供述をした。

3人の供述は、甘粕が主張する単独犯行説を否定し、軍の関与を強く暗示していた。

しかし、前憲兵司令官の小泉六一少将も、前東京憲兵隊長の小山介蔵大佐も、その後の喚問で、事件との関与を全面否認した。

小泉は予審官の尋問に答えて、以下のように述べている。
「私は憲兵隊司令官に八月六日に就任、同十三日に前任者の申し送りを受けたばかりで、以前は主として動員に関する仕事をやっており、社会主義者に関する知識は就任浅く、ほとんどなかった。そのため各方面からこれらに関する書類を集め、知識の涵養につとめていたような次第。職業柄恥ずかしい話だが、誰が主義者であるかさえ知らなかった。
しかし、災害後、戒厳令が敷かれるにいたり、不逞鮮人その他不穏の噂が伝わってきたので、戒厳に反する者は主義者たると否とを問わず、容赦なくやれとの事は言いました。甘粕大尉に大杉を検束せよとも、これを殺すことも命じたことはありません。憲兵隊に甘粕が連れて来たことも知らない。九月十八日午後三時、小山憲兵隊長が来ての報告で初めて知ったのであります」

一方、前東京憲兵隊長の小山は第5回軍法会議で、判士の質問に次のように答えている。
- 主義者の取り締まりについて何か命じたことはあるか。
「あります。震災後、諸方面からの報告により主義者を取り締まる必要を感じたので、注意するように申しました」

-甘粕らが大杉を殺したことは知らなかったのか。
「まったく知りませんでした。知ったのは十七日朝初めて松田中尉から聞きました。私は本件の処置をいかにすべきか熟慮した後、十八日午後三時に司令官に報告しました」


つづく




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