2017年9月8日金曜日

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月2日(その6) 江東区/旧羅漢寺・砂町・州崎の証言 「もう2日にはいわゆる朝鮮人狩りが始まったのです。.....これらを羅漢寺の墓地へつれて行きまして、そこで自警団の連中が竹槍または刀で惨殺したのです。」 「砂町尋常小学校の校庭に.....」  

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月2日(その5) 江東区/亀戸・亀戸警察署の証言 「〔習志野騎兵連隊が〕亀戸に到着したのが〔2日の〕午後の2時頃、...1名の朝鮮人が引摺り下ろされた。.....これを以って劈頭の血祭りとした連隊は、その日の夕方から夜にはいるにしたがっていよいよ素晴らしいことを行(や)り出したのである。兵隊の斬ったのは多くこの夜である。」
より続く

大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;江東区/旧羅漢寺〉

内田良平〔政治活動家〕
2日午後3時半頃大島町の五百羅漢に於て鮮人8名捕えられ何れも自警団員の為めに殴打せられ瀕死の状態なりし〔略〕。
(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923年→姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)

戸沢仁三郎〔社会運動家、生協運動家〕
1日の晩には早くも、朝鮮人が井戸に毒を投げ込んでいるという噂と、社会主義者が朝鮮人などを使嗾(しそう)して暴動を起こそうとしている、あるいは起こしつつあるという噂が迅速に広がったのですね。最も被害のひどかったのは、大島町に密集していた朝鮮人の人たちで、もう2日にはいわゆる朝鮮人狩りが始まったのです
朝鮮人と見ればやたらにつかまえて、それに髪の毛の長い連中、これは主義者で私どもの労働組合の中にもいてやはり被害をこうむって殺されていますが、それと平素から警察に反抗的な人間など、これらを羅漢寺の墓地へつれて行きまして、そこで自警団の連中が竹槍または刀で惨殺したのです
(「純労・南葛労働会および亀戸事件旧友会聞き取り(4)」『労働運動史研究」1963年5月号、労働旬報社)

戸沢仁三郎〔社会運動家、生協運動家〕
自警団によっては、警察の手伝いをしやがって、現に私の仲間の者が自警団につかまって、そして自警団によって殺されているんです。
ですから、自警団でも悪いやつは警察と一緒になって、あいつは社会主義者だとか、あいつは普段から生意気だったとかいうことで捕まえるんです。こういう人たちはやはり朝鮮人たちと一緒に羅漢寺へ連れて行かれてそこで殺されたんです。ですから日本人も幾人か羅漢寺で殺されているんです。〔略〕
私の方の自警団でも普段おとなしいやつなんだけれども現に自分の家にあった刀をさしてるんですよ。それでなんとか切ってみたいんですね。〔略〕羅漢寺へ朝鮮人を連れてくると、そいつが切るんですよ。それこそ手を切り落として見せるとかね、中には首を切ろうとしてみたりね。本当にもう野獣になっちゃってるんですからねえ。
(『朝鮮研究月報』1963年10月号、日本朝鮮研究所)

〈1100の証言;江東区/砂町・州崎〉
秋山吉五郎〔金魚養殖業〕
〔砂町養魚場主任・河本彦大邸宅で〕2日の晩には例の鮮人騒ぎ、8時頃になると噂に噂が生じて鮮人の襲撃が直にもあるような情報が比々(ひひ)として伝わって銃声が各所に聞こえる。極度の恐怖観念に駆られた後で真否を判断するの余裕などのあらばこそ、保護の任にある警察官ですらこれを信じて共に騒いでいる始末、我々のこれを信ずるのも無理はない。常に正鵠の判断を誤らない翁にも半信半疑であった。婦人子供等は極度に恐怖しているので、男子は不眠でその警戒に任じ、終夜銃声は絶えなかったが何事もなく夜は明けて、ホットした3日になって噂は影を生み影は真となって一層甚だしくなってきた。
(吉沢寛夫『秋山吉五郎翁』私家版、1930年)

飯田長之助
2、3日たって少し落ち着くと、商売のほうが心配になって、〔本郷から〕州崎の養魚場を見に行った。その途中の道に、朝鮮人らしい死体がゴロゴロしている。震災で死んだのは黒こげになっているが、暴行されて死んだのは、皮膚が生っ白いから一目でわかるんだ。ひでエのは、半分焼け残った電柱に朝鮮人がしばられていて、そのかたわらに”不逞鮮人なり。なぐるなり、けるなり、どうぞ”と書いた立て札があって、コン棒までおいてある。そいつァ顔中血だらけになっていたが、それでも足けりにしたり、ツバを吐きかけていくものがいてねエ・・・。(談)
(『潮』1971年6月号、潮出版社)

伊藤義一〔当時深川区明川高等小学校2年生〕
〔2日、砂町で〕あたりはだんだん暗くなってアチラコチラと提灯の光が見え出した。今夜はゆっくり寝ようとゴロリ横になったときであった。俄然「〇〇人が攻めよせてきた! 皆注意しろ!!」と大声に叫んだ者があった。むくり跳ね起きた僕は外へ出た。何んという有様であろう手に棒切れを持った青年団員抜刀した巡査などが大声に呼ばわり呼ばわり歩いているそのさげている提灯も物凄い光りを出している人々はこの震災に対して頗る元気が昂っている時であるから「〇〇人なんどぶち殺してしまえ!!」と各自に鳶口棒切などを持って出た。僕も手頃の棒を持って出た総人数14人工場に這入っている年寄女子供を守る事になった。
稀有の大震大火旋風飢疲に襲われ・・・將亦〇〇人の暴徒攻め寄せてきたというので生きた色なく無心の赤子を抱いてどうなり行くかと眼に露を宿して震えている婦人「お母さん恐いよ」と母に抱きつき大声で泣く子供「泣くと〇〇人が来るよ」と小さき声で叱る様になだめ賺(すか)す母親僕はこれらの人々に同情して思わずもらい泣きした。神は種々なる方法を講じてかくも弱い者をいじめるものかと病切に神仏を呪った。
〇〇人騒ぎで海辺近くへ避難した人々が学校さして来たので鐘を打つやら竹槍を作るやら大変な騒ぎである。
暫くすると僕らの前をバスケットを下げた大男が来たので誰何すると逃げ出したので皆で捕え高手小手に縛し上げ役場に引渡した。
そこにはやはり〇〇人らしき者が7、8人縛され何事か調べられている役場で調べると〇〇人ということが判ったが温順な人間であるから役場で保護することになった。時々「〇〇人が何百人来たの何千人来た」という声に脅かされ脅かされて恐怖の夜は全く明けはなれた。
そろそろと何を目的でさまようのか眼を皿のようにした人々があっちこっちと行き通っている。
その中を厳しく武装した各自警団が悠々として時々通るたまには血気にはやって同胞を殺すことがあるその物騒千萬である自警団がその時の市民にとっては唯一の頼みの綱であった。人々によって語り出されることは皆〇人騒ぎである。
僕は何んの気なしに役場へ行った凄槍の極みと言おうかそこには抜刀した人竹槍を持った人鳶口ハンマーを持った人又は焼けた刀を抜いた人々が皆同一の如く「これで〇〇人を一寸だめしにするのやれこれで横腹を突さしてやるの」とがやがやと話し合っている。
日の長さ時も時のたつに従いあたりは次第々々にうす暗くなった。それと共に人々の顔色も曇って来た。今は全く夜となった。自警団のちらちらと提灯の光はその凄愴を物語った。
「〇〇人が行ったぞ! 捕えろ!!」と闇をつらぬく声に僕の心はおどったそして声する方へ駆けだした。
「殺してしまえ! 殺してしまえ!!」と川をとりまいた大勢の人々が各自の武器を出して何やら黒きものをたたき且突いているやがて黒きものは鳶口によって道路へ引上げられた僕は前へ出て見た、その黒きものは人である。・・・・
酸鼻と言おうか凄惨と言おうか、その人の顔といわず胴といわず切傷突傷又は刺した傷でその所からぶくぶくと生ぐさい血が出て虫の息である。・・・
これを見て一同は各自の武器をさし上げて萬歳を唱えた。
聞く所によれば学校の縁の下で鉋屑(かんなくず)に火をつけたところを巡回人に見つけられ追い出されたのだと。
一騒ぎも終りて夜はひっそりした。月は物凄い程冴え渡っている。時計は丁度11時頃であった。勇ましき喇叭の音と共に「チャンチャン」と警鐘が乱打された。皆の顔色はどよめいた。しばらくして「〇〇人が爆弾鉄砲ピストルなどを持って運河のごとく攻めよせて来たから皆大いに奮闘せよ」という、ふれが廻ったと物凄き銃声は大地を震わした。僕は棒切を捨てて石塊を拾った。僕の心には決死という事が刻まれた。
けたたましき警鐘の音喇叭の音物凄き銃声・・・しかし〇〇人の来る様子もない喇叭の音警鐘の音銃声も今は止んで後はまた一しきり寂寞の夜となった。初めて流言蜚語という事が分かった
旦那の家を4、5人で守る特に僕と2、3人は工場井戸(井戸へ〇〇人が毒薬を入れるという噂もたったので)を守る事にした。

〔略。3日〕丁度11時頃であった100名ばかりの〇〇人が縛され15、6名の軍人に護送された昨日の銃声はこれらの〇人を捕えるためにうった空砲であった。とその日も〇〇人騒ぎで何事もなくすんだ。
(「震災記」東京市役所『東京市立小学校児童震災記念文集・高等科の巻』培風館、1924年)

伊藤国太郎〔当時12歳〕
翌日〔9月2日〕の昼頃には、もう家〔砂町の警察・小学校・役場へ行く道と火葬場へ行く道のT字路の角から2軒目〕のそばの十字路の所に憲兵が立っていまして、昔は”剣付き鉄砲”といいましたが、鉄砲の先に剣がついたものを持っていました。
その夜でしたか、朝鮮人が井戸に毒を投げた、社会主義者が謀反を起こした、という大人たちの声を聞いたわけです。あっちもこっちも大人連中が集まれば、そういう話でもちきりでした。
〔略〕2日か3日の夜です。朝鮮人が井戸へ毒を投げた、というので、みんな喧喧囂囂(けんけんごうごいう)としていて、夕方になると血気な者が竹槍を持ったり、それぞれ木刀を持ってきたり、武装して、朝鮮人を見つけろ、というわけで探しているわけです。はす田といって、はすの葉がうんと繁っている田がたくさんあったんです。少し風でそよいではすの葉がゆれると、「ほら、いた」と追いかけるわけです。でも、いないんですね。私なんかも竹槍持たされて「お前も男だからついてこい」といわれ、後からおそるおそるついていきました。だけど、だれもつかまえたことはなかったですよ。
〔略〕そこの〔役場の隣の砂町〕尋常小学校の校庭に、道路に向かってみんな後ろ手にしばられて、距離としたら6尺から9尺ぐらい離れて坐らされていますもう死んでいる、殺されている人もいるわけです。校舎ほとんど全体、6教室から7教室の長さですから、おそらく20人ぐらいいたんじゃないですか。
ある者は浴衣がげで肌ぬぎになってさらしを巻いていた人という記憶がありますね。素人の人でしたらさらしの腹巻というものを巻かないわけです。やくざとはいわないまでも、そういった類の人ではないかと思うんですよ。あと小頭、赤っぽい印半纏(しるしはんてん)を着た人間もいました。
憲兵が要所要所にいて、見ているわけです。日本刀を持って首を切るんです。切るといっても剣道ができるわけじゃなし、ただ力で切るだけでしょ。だからほんとうに恨めしそうに殺されていました。〔それは〕4日か5日ですね。
(「小学校の校庭で」関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼実行委員会編『関東大震災と朝鮮人虐殺 - 歴史の真実』現代史出版会、1975年)

加藤春信〔当時8歳。砂町新田亀高で被災〕
9月2日の夜、本所被服廠跡から生命をとりとめて還ってきた重ちゃん〔兄〕が、そこで受けた火傷や怪我の傷の病みに苦しめられていた時、闇を突き破ってどことなく無気味な空気を孕んでメガフォンを通してきこえてきた声についての話を前に戻してふれてみたい。
その声はくぐもってはっきりとは聞きとれなかったが、何か重大な事件が勃発して、それに対処するための警告が発せられているようであった。それでも筏の上でごろ寝していた私はふるえながら耳を澄ますと、その声の意味するところは次のように聴きとれることができた。「まもなく朝鮮人の一団が徒党を組んでこちらの方へ向って侵入してくる、橋が落ちているため川を渡ってくるだろうから、もしも全身ずぶ濡れの怪しいものをみつけたら、そいつらは不逞の輩であるから、たちどころに捉まえて当局へ引き渡すようにせよ」
その声の主は数人でトラックに乗り、焼場通りを通過していくらしく、初めは遠くの方できこえてきたその声がはっきりとした仔細はつかめなかったけれど、急につのってきた恐怖の念で胸うちふるわせている私の耳に、だんだん真近に迫って響いてきたかと思うと、やがてつぶてを投げてできた波紋が、しだいに淡く拡がっていくように遠ざかっていった。
その後すぐに各家毎に老人・子供・婦女を除く成人の男性だけが悉く狩り出されて、俄かじたての警防団のようなものが組織されたようであった。集められた人々は各自の家から持ち出した刀剣類の武器を身につけて、警備の任についたそうである。そして、重なり合った広葉で被い尽くされていて、いかにも怪訝な人間でも潜んでいそうな付近の蓮田をとり囲み、「出てこい!この野郎。出てこないとぶった切ってやるぞ」とてんでに怖さをカバーするような大声を発しながら、蓮田の泥水の中に踏み込んで、恐る恐る囲みの輪を締めていったということを後になって聞いた。
まだ小学校の下級生の幼い頃の私には、その夜の物情騒然たる世相を納得のいくまで察知することはできなかったが、激震という未曾有の大災害に加えて、その翌日の夜に突然報知された暴動という人災に追い討ちをかけられて、なすすべもなく、筏の上に吊られた蚊帳の中で、ただ戦慄しながら怯えているばかりであった。
〔略〕わが家が含まれる場所やその近辺は現在の江東区に当たるが、その地域には朝鮮の人たちが多く居住していたそうで、彼らの中でその時大量の犠牲者が出たそうであった。わが家の東方に所在する持宝院の墓地の一部に集められたそれらの遺骸を火葬にする煙が風に乗って、むかつくような悪臭を漂わせてわが家の方へ匂ってくる日がその事件のあった日から数えて、幾日か続いたのを覚えている。
(加藤春信『早春回想記』私家版、1984年)


【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月2日(その7) 江東区/深川、品川区/荏原・戸越の証言 「...かくて民衆の手に依りて逮捕し、本署に同行せるもの少なからざりしが、概ね沖縄又は伊豆大島の人なりき、然れども人心はこれが為に興奮して自警団の横行を促せり。」
に続く



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