2017年12月28日木曜日

『大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ』を読む(8) 第一章 アジア Ⅱ フィリピン(1終)

皇居東御苑 2017-12-27
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Ⅱ フィリピン
カガヤン、リンガエン、マニラ
スペイン側の文献に最初に登場するフィリピンにおける日本人の居住区は、日本人とスペイン人の間で最初の衝突が起きたことが知られるルソン島北部のカガヤンにあった。

1582年、フィリピン総督ゴンサロ・ロンキージョ・デ・ぺニャローザは、カガヤン川河口に船長フアン・パブロ・デ・カリオンを送り、軍事行動の指揮を執らせた。フアンは中国船数隻と日本船1隻を攻撃し、さらに航海の途中、日本のサンパン船(平底の木造船)18隻と戦闘に及んだ。戦闘では、艦隊長とその息子、および日本人200人以上が殺害されたという。フアン・デ・カリオンはその地に住着き、日本人の追放を試みた。カガヤンには日本人600人以上が居住しており、スペイン人入植者に対して抵抗したが、すぐに鎮圧された。
その後、1586年に大村からの商船1隻がこの地を訪れるまで、日本人に関する情報は見当たらない。

また、日本人が頻繁に通商をおこなった別の地域にリンガエンがあり、日本人はそこにボルト・デ・ロス・ハポネセスと呼ばれる(スペイン語で「日本人の港」を意味する)小さな港を作っていた。この港は16世紀から17世紀初頭まで栄えた。1618年、フィリピン総督は、皮革製品がこの地域の主要産品であり、日本人商人が毎年日本に6万~8万頭分の鹿皮を積み出していると、スペイン当局に伝えている。

マニラ在住の日本人に関する情報は、1570年のマルティン・デ・ゴイティの記録に、彼がそこへ到着した時、中国人40人と日本人20人に出会った、と書かれている。日本人の1人はパブロという洗礼名を持つキリシタンで、彼は聖画を見せながら、スペイン人にロザリオを求めた。
マニラがフィリピン諸島の交易の中心地になると、日本人商人はカガヤンとリンガエンから徐々にマニラへ移住し始めた。1583年、マカオーマニラ間に通商が始まると、日本人の多くはマカオ経由で、マニラへ到来し始めた。

マニラ当局と日本人
当初、マニラでは、スペインの植民地当局と日本人コミュニティは互いに警戒し合っていた。
1584年、フィリピン総督はマカオから来たポルトガル商人バトロメウ・ヴァズ・ランデイロの二隻の船から軍事的支援を受け、サングレイ(在住中国人)の反乱を鎮めることができた。しかし3年後、日本人コミュニティに対しても反乱の疑いが持たれ始めた。豊臣秀吉が「伴天連追放令」(1587年)を発布した後、一隻の日本船がマニラへ到着した。その乗組員らが反乱を教唆しているという疑惑が浮上し、船員数名が逮捕され、通訳ディオニシオ・フェルナンデスが処刑された。

1588年、平戸から別の日本人の商船がマニラに到着し、乗組員に商売が許された。その後1589年に、キリスト教関係者と思われる日本人の一行がやってきた。そのキリスト教関係者たちはスパイで、秀吉が近い将来、マニラに軍事攻撃を仕掛けるために、この地域偵察していたという疑いがもたれ、彼らが日本へ出港すると、マニラの防備が増強された。また、マニラの日本人コミュニティはマニラ郊外のディラオへ強制的に移され、武器は没収された。

1593年6月の時点で、このコミュニティには日本人定住者300人以上がいて、その後の2年間で3倍以上に膨らんだ。フランシスコ・デ・ミサスの書簡には、マニラ在住日本人は、1595年時点で1000人以上であったと記されている。その急激な増加の原因は、マニラと長崎間の日本船による通商が、1590年代前半に盛んになったためであると考えられる。

1596年、フィリピン総督ドン・ペドロ・デ・アクーニャはフアン・デ・ガリナートを将軍として、カンボジアに遠征軍を派適した。その軍には日本人傭兵が多数参加していた。マニラの日本人コミュニティがスペイン当局に軍事的な支援を提供したのはこれが初めてであり、同様のことがその後も度々おこなわれた。
同年、ガレオン船サン・フェリペ号が、マニラからアカプルコへの往路、四国沖で遭難し、土佐浦戸に漂着した。当時の海難に関する国際法では、漂着船の然るべき救助は義務であったが、日本の法令に従って、秀吉は積荷没収を命じた。またそれに関連して、フランシスコ会宣教師や日本人キリシタン計26人が長崎へ送られ西坂で処刑された。その報復として、スペインのマニラ総督府は日本人追放を決定し、マニラ周辺の日本人定住者数は500人にまで減少した。

1598年頃、この日本人コミュニティは徐々に活況を取り戻した。
この年、日本人傭兵の一団が総督ルイス・ペレス・ダスマリニャス(在位、1593~96)に随行してカンボジアへ向かった。
1603年には、マニラで蜂起したサングレイの暴動をスペイン人が鎮圧するために、日本人が傭兵として動員された。
ところが、1606年、日本人コミュニティもまた、スペイン当局に対して不満を抱き、反乱を起こした。きっかけはマニラの王立大審問院(レアル・アウディエンシフ)が公布したマニラからの日本人追放令であった。反乱は教会関係者らの介入により、未遂に終わった。

しかし、翌1607年~1608年、新たな反乱が発生し、コミュニティはスペイン軍による鎮圧で壊滅状態となった。
同年、ビベロ・デ・ベラスコの外交使節は徳川家康に対し、マニラへ来る日本人は商人と船員に限るよう依頼した。1608年8月6日に使節一行を受け入れた家康は、フィリピンで暴動を起こす日本人はすべて処刑されることに同意した。しかし、実際には、日本人傭兵/海賊のマニラ定住を阻止するための、具体的な対策は採られなかった。

日本人コミュニティ
1614年12月21日、江戸幕府の禁教令を受けて、教会関係者33人と日本人100人以上がマニラに渡った。その中には、秀吉の有力な家臣であった高山右近と内藤如安もいた。右近の没後、故国へ帰れない日本人たちは、内藤如安の指揮の下、マニラにサン・ミゲル居住地を築いた。そこには、若者たちが将来日本に帰還する可能性を配慮し、キリスト教の布教に役立つよう、セミナリオ(神学校)のような施設も建てられた。
その後日本人コミュニティは1608年から15年の間に再建され、日本人傭兵はフィリピンの駐屯部隊において、重要な地位を占めるようになっていった。
1615年、日本人傭兵約500人が、総督フアン・デ・シルバ率いる対オランダ遠征隊に加わり、マラッカ海峡に向かった。その際、マニラに残された兵士たちは、スペイン人500人と日本人およびパンパンゴ先住民総計700名で、オランダの攻撃からマニラを守るため、海上警備にあたった。
1619年の時点で、日本人コミュニティの人口は約2000人であった。
翌年には、3000人との記録がある。
1623年12月31日には、さらに3000人以上へと増加していた。マニラ在住の日本人が急増した背景には、日本とマニラの間の通商往来が盛んになっていたことが考えられる。

日本からは朱印船だけではなく、長崎在住のヨーロッパ人がフィリピンへ来航するようになっていた。
1619年11月22日、ドン・フェルナンド・デ・フィゲイロアを船長とする船が、長崎からマニラへ入港した。その船には、ポルトガル人4名、ビスカヤ人2名、フランドル人1名、ガリシア人1名、カスティーリヤ人1名、ジェノバ人1名が乗っていた。

1620年5月11日には、マニラの外港カビテ港にサント・アントニオ号が長崎から到着した。その船は、同年3月26日に長崎を出発したが、船長は、長崎在住の有力なポルトガル大商人、マヌエル・ロドリゲス・ナヴァーロであった。そこには、日本人船員101人が乗り組んでいた。

呪術を使う日本人奴隷
1621年3月6日、日本人で奴隷身分の2人の女性ウルスラ・ジャボーナとドミンガ・ジャボーナが「魔女」であるとして告発され、その報告がフィリピンからメキシコへ送られた。ウルスラはドゥエナン・イザベル・デ・モンテネグロという女性の病気を治す依頼を受けた。ドゥエナンがウルスラに症状を詳しく説明したところ、ウルスラは、病気は呪いのせいであると診断した。そしてウルスラは、呪いの主として、モンテネグロ家の奴隷を言い当てた。
ウルスラには過去を読む力があり、依頼者の手相を読みとるだけで未来が予測できると信じられていた。唯一「手相読み」があたらなかったのは、逃亡した黒人奴隷についてであった。ウルスラは、この黒人はフィリピンにいて、日本にもマラッカにも逃げていないと断言した。ウルスラはまたこの奴隷が元の主人のところへ戻ってくることを保証したが、それは実現しなかった。

別の例として、1622年3月17日、外科医フアン・デ・イサソゴアラは、日本人フランシスコ・デ・ハボンを「呪術師」として告発した。フランシスコは、フアンに一種の薬草を渡し、それをフアンが恋する女性に与えれば、その女性もまた彼(フアン)に惚れるだろう、と伝えた。フランシスコ・デ・ハボンがフィリピンで異端審問にかけられたのか、あるいはメキシコへ送られたのかは不明である。

スペイン人官僚の日本人妻
史料から判明する日本人妻の例は、いくつかあるが、17世紀前半の有名な事例は、マリアーナ・ナバーロであろう。マリアーナは、スペイン人官僚で、マニラの王立大審問院における要職、検察官であったフアン・ナバーロの妻であった。フィリピンのエリート社会階層に属したマリアーナはキリスト教徒として模範的な人生を送り、教会には欠かさず通っていた。ところが、1613年、マリアーナは修道士ミゲル・デ・サン・フアンが彼女に対し、性的暴行を加えたとして告発した。
その告発記録によれば、修道士は告解室において、彼女と夫の性的関係について質問し、その後夫妻の家に無理やり同行して、彼女に性的関係を迫った、ということである。マリアーナの一件に関する書類は、メキシコ国家文書館の異端審問記録にあるが、事件の結末は、記録からは不明である。

エリート階級にあったマリアーナが修道士を告発した件に関連して、別の女性に関する一件も明らかになった。その女性の国籍、名前は不明である。「日本人」とは記されず、「インディア」と記される。「インディア」は、「インド人女性」や「先住民女性」を意味せず、「アジア人」全般に使われた呼称である。しかし、マリアーナに関連した史料にあるので、その女性は日本人であった可能性が高いと考えられる。彼女はマリアーナの件に類似して、修道士へルナンド・デ・モラガを告発した。

フィリピンと日本の断交
17世紀に入ると、スペイン当局とマニラ在住日本人との関係は悪化し始めた。
1619年と1623年には、複数の日本人グループがマニラを離れ、スペインにとっては最大の敵であるオランダ艦隊に加わった。
1624年、フィリピン総督アロンソ・ファハルド・イ・テンザ(在位、1618~24)が派遣した使節を江戸幕府は拒絶した。それによって、スペイン領フィリピンと日本との関係が正式に絶たれることになる。その理由は、キリスト教宣教師がマニラから密入国してくるのを阻止するためであった。
例外として、1630年、2隻の船がマニラにやってきた。これは1628年にアユタヤで起きた、スペイン船による高木作右衛門の朱印船焼き討ち事件に関連して、マニラの状況を偵察する(軍備などを調査して征服の可能性を探る)ためのものであったと言われる。
2隻の船は長崎奉行竹中采女と島原領主松倉重政が派遣したものであった。これらの船はマニラで商取引をおこなって帰っていったが、以降、マニラー日本間の通商は途絶え、人の往来もなくなった。
稀有な事例として、1632年頃、癩病患者130人が日本からマニラへ送られてくるような事件があった。





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