2018年3月17日土曜日

「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)編年体ノート7 (明治24年~26年)

熊谷桜 国立劇場 2018-03-15
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明治24年
この頃の漱石
明治24年5月頃、第一高等中学校に校長のバックアップで国家主義を標榜する学生団体が作られた。漱石は、いったんは会員になったが、発会式の様子を見て、「そう朝から晩まで国家々々と言って恰も国家に取り付かれたような真似は到底我々にできる話ではない」(「私の個人主義」)と演説し、退会した。

この年の夏、漱石、山川信次郎、中村是公らとともに富士山に登る。

明治24年12月5日付の岸田俊子の日記に「前田案山子至る」とある。
お土産に持ってきた「肥後朝鮮飴」がとても固く、庖丁でも歯でも噛み切れなかったと書いている。「肥後人噛牙の堅牢可知也」と書き、さらに案山子が国会に条約改正案を提出したことに触れている(『湘煙選集3 湘煙日記』)。

明治25年
宮崎滔天と妹前田槌の結婚
二人は秘かに婚約し、明治25年夏、結婚する。
この結婚は、世の常識からは大きくかけ離れていた。滔天にとってこの時期は、すぐ上の兄弥蔵の影響により、「世のため人のため」という漠然とした思いを、「世界の窮民を救う」という明確な目標として定めた時期であり、中国革命を通してアジアと世界の人民を解放するという、具体的な行動目標を持つようになる過程でもあった。滔天はそうした熱い思いの実現のためにアメリカ留学を試みたり、中国行きを企てるなど、家に落ち着くことなど考えもしなかった。

槌もそのことは承知の上での結婚だった。滔天がそういう人だからこそ、尊敬もし愛しもしたのだ。従って、東奔西走する夫を当然と思い、槌は次々と生まれる子供とともに滔天の実家である荒尾(熊本県玉名郡荒尾村、現熊本県荒尾市大字荒尾)に残って、必死に暮らしを立て続けた。下宿屋を営んだり、貝殻を焼いて石灰を売ったりするが、貧苦は続いた。父案山子の反対を押し切っての結婚であり、清貧をもとめる滔天の主張もあって、実家に頼ることはなかった。それでもついに結核にかかったときは、子供たちとともに小天の実家に身を寄せることになる。

その間滔天は、孫文に出会い、中国革命に関心を寄せる犬養毅や頭山満らに出会い、犬養を通して大隈重信ら政府要人に出会い、日本政府のために中国の革命運動の調査をし、孫文らと日本政府の橋渡しをしつつ、中国革命そのものに深く関わっていく。

一方で滔天は家族から解き放たれた男として、自由奔放に振る舞っていた。毎晩のように大酒を飲み、遊郭に遊んで花流病に罹り、芸者留香に恋をしてその芸者家に居つづけ、さらには別の女性柿沼とよと同居して子供ももうけている。

そうした中で槌と滔天の間にも、しだいに意識のズレとすき間が出てきたと想像できる。槌の同志としての思いは終生変わらなかったが、女としての感情はまた別だろう。
それでも槌は滔天との結婚を貫き、生涯添い遂げるが、槌が子供たちとともに上京して家族そろって一つ家に住むようになったのは、卓が上京する明治38年3月、結婚してから13年後のことだ。

この年の末、清水豊子は、東京農科大学の農学博士、古在由直と結婚する。古在は豊子を尊敬し、互いに一個の人間として対等の関係を誓っての結婚であった。

明治26年
前田卓と長塩の結婚の日々と離婚
明治26年7月頃には、二人が東京で共に暮らしていたことを示す資料がある。
宮崎滔天が、妻槌に宛てた7月16日付けの手紙に、卓と永塩の消息や、前田家と卓との問題に関るる内容が書かれている。

〔前略〕昨日は午後、三崎町〔長兄下学の住居〕に参り申候所、怱々(そうそう)から不吉の話、遂に小生にも於卓夫婦と絶交せよ、然らずば自分との交通を断たんとまで言われ候。小子は是れは非常の難題で御座ると一笑には付し去り申候えども、とにかく中間に居りて心配の事に御座候。しかし小子は偏せず党せずで済ます積りに御座候。今日は午前より長塩方に参り姉上にも面会いたし候所、是れまた一伍一什(いちぶしじゆう)の話聞き度も無けれども、二人して御話の事、馬耳東風にもならず実に閉口致候。下学兄の話を聞けば是れにも中々尤の所あり。亦於卓姉方の方にも尤もの所あり。しかし悪所も双方にある様なり。慥(たしか)に双方にあるなり。小生も今度父上〔前田案山子〕妾を置なさるるなどの事は以の外の事と思い申條間、都合にては一度は子たるの義務として御忠告も申上んとは存候えども、今日の如き時に小子まで口を入れ候えば、ただ火の中に油を注ぐと同様で益(ますます)紛乱を譲出するのみに候間、中子は愈(いよいよ)黙して時を待たん。〔略〕御津奈様〔卓のこと〕も此度、時を伺わず機を見ず感情に任せて御切込みに相成候間、中々不善の結果と相成居候事も之有候間、この後とて御卓様に切込の勧状など無之方宜敷からんと存候〔後略〕。(『宮崎滔天全集』第五巻)

手紙は、卓と永塩が夫婦として暮らし、周囲にも認知されていることを示している。卓夫婦と三崎町に住む長兄下学との間に揉め事があり、滔天はその間に入って苦労していることが窺える。下学は滔天に、卓夫婦と絶交しろと迫っている。
揉め事は、前田家の財産分与の問題で、卓は、長男下学だけが全財産を受け継ぐのではなく、他の妹弟にも分け与えることを主張していた。これは、当時の家制度に対する異議申し立てだ。もう一つは、父案山子が妾を置いたという問題。卓はそれについても、下学の責任だと追及したのかもしれない。

地租(免訴延長)問題の解決
明治27年(1894)、17年間の免訴期間が切れることになり、期限が迫る25年頃には延長を求めて農民らが再び燃えあがった。前回の小天の成果を知った他の村が同調してきたため、今回は、玉名だけでなく八代などもふくむ6郡83ヶ村に広がる闘いとなった。
案山子は再び先頭に立ち、松平直正県知事に論願書を出し、何度も上京して大蔵大臣や次官に面会し陳情請願を行った。各地の地主・小作人も県庁に請願運動を繰り返した。この粘り強い交渉の結果、明治26年11月2日、さらに33年間の免訴延長を勝ち取り計50年の免訴を実現させた。

案山子は、議員を1期で終え、地租問題の全面解決を見届て、明治26年、政治活動から身を引く。その間、膨大な活動費用を蕩尽した。

前田家の財産を巡る争いはこの頃に始まる。
案山子の引退後、前田家はどうするのかという問題である。案山子が隠居して家督を譲れば、前田家の財産はすべて長男下学のものになる。下学はその常識を主張した。
一方、卓は、他の兄弟姉妹にも分け与えるべきだと主張した。家の財産は長兄だけが継ぐという、従来の家制度への反撥だけでなく、それ以上に妹弟を助けたい、助けなければならないという長女的体質の主張だった。
滔天が7月の妻槌宛ての手紙で、「下学兄の話を聞けばこれにも中々尤もの処あり。また、於卓姉方の方に尤もの処あり」と書くように、どちらの理屈も通っていた。

(つづく)



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