2018年5月30日水曜日

クロ現(5/30)。 上西充子 「柔軟な働き方は間違ったうたい文句。 労働時間の規制は使用者を縛るもの。 それを外すという事は、(使用者側が)柔軟な働かせ方が出来る… 裁量労働制より厳しい働き方…」 / 竹中平蔵「私はこれ(高プロ)を適用する人が1%じゃなくてもっともっと増えていかないと日本の経済は強くなって行かないと思っている」 増やす気満々。経済至上主義。小さく生んで大きく育てる。最後に出た言葉がお決まりの「民間に委託」



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皇居東御苑の花菖蒲(ハナショウブ)、徐々に花の数が増えてきた。 2018-05-30

5月30日、くもりのち雨
皇居東御苑のハナショウブ、数が徐々に増えてきた。
月末とはいえまだ5月。
こんなにたくさんハナショウブが開花するのは珍しいのではないだろうか。







『帝都東京を中国革命で歩く』(潭璐美 白水社)編年体ノート02 (明治30~31年)

皇居東御苑
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明治30年
孫文の来日
1866年に広東省香山県で生まれた孫文は、字を逸仙、号を中山という。中国や台湾では「孫中山」、欧米諸国では広東音で「Sun Yat-sen(孫逸仙)」と呼ばれるが、最近は日本と同じ「孫文」という呼び方も普及してきた。
10代の頃に兄の住むハワイに渡って英語を勉強し、香港で西洋医学を学んで医師になった。だが政治に強い関心を持ち、革命結社「興中会」を組織して、1895年に清朝政府を打倒しようと広州蜂起を企てた。それが露見して清朝政府から指名手配され、逃走。香港から神戸、横浜経由でハワイへ逃亡し、さらにイギリスへ行った。そして2年後の1897年、改めて日本へやってきた。

孫文(30歳)は、逃亡中のロンドンで大英博物館の希少本を書写している南方熊楠(29歳)と知り合って意気投合し、2ヶ月間毎日行き来して親友になった。医師・孫文と博学・鬼才の熊楠は、科学知識から東洋と西洋の比較、歴史や風俗習慣、アジア民族の救済に至るまで、話題は尽きなかった。

孫文の来日目的は、横浜華僑の馮鏡如らの支援を受けて、中国に近い日本の地で革命の準備を始めるためであった。

横浜の華僑宅に滞在中、犬養毅の特命を帯びた宮崎滔天が来訪し犬養毅との面会が叶った。その晩、平山周と京橋の対鶴館に泊まったが、平山周の回想によれば、宿帳に中国人の名前を書くわけにいかず、通りがかりの日比谷で見た大邸宅、中山忠能侯爵の表門にあった表札を思い出し、宿帳に「中山」と苗字を書き、孫文が「樵」と下の名前を書き添えた。日本名としては少し妙な感じがすると平山は言ったが、孫文は「自分は中国の山樵だから、これでよい」と言ったという。
犬養毅は孫文を気に入り、東京に置くことにして、大隈重信を通じて東京府に申請して許可を受け、宮崎滔天と平山周に命じて住む家を探させた。

最初に引っ越したのは麹町区平河町5丁目30番地だった。しかし中国公使館とは至近距離にあり、孫文は落ち着かなかった。というのも、1年前のロンドン滞在時に、散歩の途中で中国人に話しかけられ、強引に中国公使館へ連れ込まれて監禁された苦い経験があるからだ。そのときは危うく清国に送還されそうになったが、ロンドンのメディアが「清国革命家の監禁事件」として大々的に報じたため救出された。

間もなく、牛込区早稲田鶴巻町40番地(現、新宿区早稲田鶴巻町523番地)にある大邸宅を借りた。松隈内閣時代に山林局長を務めた高橋琢也の所有する700坪の大邸宅である。東京専門学校(現、早稲田大学)から大通りを挟んだ向かい側にあり、馬場下に居を構える犬養毅の邸宅とも目と鼻の先にある。平山周の語学教師という名目にして、孫文の同志の陳少白と3人で住むことにした。表札は「中山」とした。
それ以後、孫文は毎日のように犬養邸を訪問し、政治談議を交わし、夫人の手料理をご馳走になった。風呂好きの広東人らしく、訪ねると真っ先に風呂を所望し、ときには泊まっていくこともあったらしい。孫文は英語が得意だったが日本語はわからず、犬養との会話は筆談であった。

犬養毅は後に鵜飼熊吉のインタビューに答えて、孫文を次のように評している。

孫が初めて日本に亡命したときは三十代の血気盛りで、言うことは理想論が多かったけれども、大局に通じ見識もあり、それに人間が頗る正直で金に奇麗で支那人臭くなく、同志に対しても親切であった。

犬養毅と打ち解けると、孫文支援の輪が広がった。立憲政治を主張する政界の人々と知り合い、福岡・玄洋社の創設者のひとりで国家主義運動の草分け的存在であった頭山満に紹介され、孫文は頭山の主張する「大アジア主義」に深く共感した。生活費も、玄洋社社長で炭鉱経営者の平岡浩太郎が支援してくれることになった。

明治31年
梁啓超の日本亡命
1898年10月、西太后の軍事クーデター「戊戌政変」で清国を追われた梁啓超は、日本へ亡命。船中で漢詩の一節を詠んだ。

鳴呼 済艱乏才兮 儒冠容容
佞頭不斬兮 侠剣無功
君恩友仇両未報 死於賊手母乃非英雄
割慈忍涙出国門 掉頭不顧吾其東

ああ、艱難を救うには才が乏しく、儒学の冠をかぶる者は易きに追随する。
頭をへつらい斬らず、侠士の剣は効なし。
君子の恩も友の仇もふたつとも報いるをならず。賊の手により死す者はすなわち英雄ならんか。
慈を割き涙を忍んで国門を出る。頭をふるって顧みず、われは東へ行かん。

吁瑳乎
男児三十無奇功 誓把区区七尺還天公
不幸則為僧月照 幸則為南洲翁
不然高山蒲生象山松陰之間占一席
守此松筠渉厳冬 坐待春回 終当有東風

ああ、
男子三十にして功もなし。誓ってつまらぬ私が身を天に還さん。
不幸ならば僧の月照となり、幸いならば西郷南洲となろう。
さもなければ高山(彦九郎)、蒲生(君平)、(佐久間)象山、(吉田)松陰の間に一席を占めよう。
松竹の常緑を守りて厳冬を渡り、座して春の巡るのを待ち、いつの日にか東の風に当らん。

梁啓超は広東省新会県の人で1873年生まれ。字は卓如、号は任公。幼時から神童と呼ばれ、17歳で科挙試験の郷試に合格して「挙人」の称号を得る。18歳で康有為に師事して一番弟子となり、清朝の政治改革運動に従う。
1898年夏、光緒帝(27歳)が康有為の提言を容れ、日本の明治維新に倣って政治改革「戊戌変法」を実施したが、守旧派の既得権益に触れて怒りを買い、西太后の画策した軍事クーデター「戊戌政変」により潰されてしまう。光緒帝は幽閉され、改革派は逮捕・処刑されたが、康有為は逃げ延びた。梁啓超も北京の日本大使館へ駆け込み、折から清国訪問中だった伊藤博文に助けられて日本へ亡命した。
天津で戦艦「大島」に匿われ、失意のどん底にいた梁啓超を見るに見かねた艦長が、東海散士『佳人之奇遇』を手渡した。世界7ヶ国の歴史を説いて日本国の危機を訴えたこの政治小説に、梁啓超は夢中になり中国語に翻訳した。
その後、梁啓超は14年間、日本で亡命生活を過ごすが、貪欲な情熱で「日本学」や近代科学を吸収していった。

明治31年10月21日、広島経由で東京へ到着すると、その晩は北京の日本大使館から付き添ってきた平山周に伴われて、麹町区平河町4丁目の旅館三橋旅館(三橋常吉経営)に宿泊した。翌22日、牛込区早稲田鶴巻町40番地の高橋琢也方へ移ってからは、梁啓超は手紙を書くことに没頭する。
まず、伊藤博文に感謝の意を表するのと同時に、光緒帝を救ってくれるよう嘆願して面会を求めた。だが伊藤から返事はなかった。他の政治家たちにも面会を申し込んだが、だれからも反応はなかった。

ようやく外務大臣大隈重信の代理人志賀重昂と再会できることになり、梁啓超は徹夜で「光緒帝救出作戦計画」を作成して持参した。10月26、27日、梁啓超は志賀と筆談で懇談した。志賀は梁啓超の熱意に打たれ、同情の念を示した。だが、退職間際の志賀には権限もなく、期待した日本政府の支援には繋がらなかった。日本政府は形ばかりの機会を設けて話を聞いてやり、それでお茶を濁した。

日本の新聞で「性急な改革が今般の禍を招いたのだ」との改革派に対する批判記事が掲載されたので、梁啓超は、知識界の大御所品川弥二郎子爵に丁重な手紙を書き送り、日本の世論に対する違和感を切々と訴えた。
手紙の末尾には、
「(梁)啓超は敬愛する(吉田)松陰、東行(高杉晋作)両先生にあやかり、いま名を吉田晋と改めました。現住所は牛込区鶴巻町四十番地です。もしお手紙を賜りますれば願ってもない喜びに存じます」と書いた。
日本に来た中国知識人の多くが日本名を名乗っていたのは、この時代の特徴的な現象である。亡命者の場合は安全のためでもあったが、日本と日本人に尊敬の念を抱いていたことは確かだろう。

一方、康有為は香港から宮崎滔天に伴われて日本へ亡命した。10月25日、新橋駅へ到着した康有為を、梁啓超と清朝の若手官僚だった王照が迎えた。
康有為も三橋旅館で数日宿泊した後、10月29日、牛込区市谷加賀町1丁目3番地の柏原文太郎が所有する貸家へ移り、梁啓超も合流した。

康有為と梁啓超は清国再生の提案書をまとめ、日本政府に提出したが、日本は清国政府から「犯罪者を保護している」との抗議を受け、最終的に康有為に国外退去を求めることになる。「光緒帝からの手紙」を持っているとして権威を振りかざす傲慢な康有為に手を焼いたこともある。しかし、梁啓超には「学術研究」という名目で日本滞在許可している。礼儀正しく物静かな梁啓超は、日本政府や日本人から好感を持たれた。

11月11日、梁啓超は横浜華僑の鴻鏡如らの資金援助を受けて、横浜に移り『清議報』(10日毎に発行するミニコミ紙)を創刊した。
この年の冬、梁啓超は「戊戌政変」に関する記事を連載し、後に『戊戌政変記』として1冊にまとめた。この頃から、孫文ら過激な「革命派」に比べて、穏健な梁啓超が「改良派」と呼ばれるようになった。

明治31年
駐清国全権大使矢野文雄が清国政府に継続的な留学生の派遣を説く

(つづく)




横浜美術館で開催中の「ヌード展」に行った 2018-05-30

5月29日(昨日)
横浜美術館で開催中の「ヌード展」に行った。
メインの展示物、ロダンの《接吻》は撮影OK。
これは鑑賞の価値あり。
加えて、横浜美術館のコレクション展(これは以前から撮影OK)もセットで鑑賞できるので、お得感も増してくる。
(西洋美術館、近代美術館、国立博物館なども同じだけど)








【森友問題 マスコミ対応で籠池前理事長と口裏合わせ】またか財務省 今度は「応接記録」改ざん疑惑浮上 共産入手文書には詳細な記述 / 衆院財金委(5/29)。「交渉記録も改竄されているのでは」と宮本議員。太田局長がその可能性を認める。 / 報道ステーション 宮本徹議員が改ざん疑惑を指摘した“応接記録”。情報公開で開示されたペラ一枚に対して、宮本さんが独自入手したものは4ページ。朝日新聞が森友問題 について第一報を打った直後のやり取りで、国が森友に取材で何を聞かれたかを根掘り葉掘り聞いている。











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衆院党首討論(5/30)。志位和夫(共産) 「改竄、隠蔽、廃棄、虚偽答弁。このような悪質極まる行為を引き起こしたのは、あなたの安倍政権が歴史上初めてなんです」 「どうしてそんな事が起きたのか、国民はみんな解ってますよ。あなたのウソに辻褄を合わせるためだ」 (2分18秒ダイジェスト)
















2018年5月29日火曜日

加計学園「自治体騙し」自認文書で、「安倍政権側ストーリー」崩壊の危険(郷原信郎);「首相は…加計孝太郎氏について「彼が私に対して私の地位や立場を利用して何かを成し遂げようとしたことはただの一度もない。獣医学部新設について働きかけや依頼は全くなかった」と繰り返し答弁してきた。…そのような「安倍首相のストーリー」も根底から崩れることになる」


もはや関わっていないとの強弁もできなくなった安倍晋三、絶対防衛権を「贈収賄」にまで引き下げる(殆どギブアップ宣言); 「私や妻が関係していたとなれば、首相も国会議員も辞める」とした昨年2月の自身の答弁について、「贈収賄は全くない、という文脈で一切関わっていないと申し上げた」と説明 / 贈収賄でなければ、総理夫妻のお友達に、特別の便宜を図ってもいいのか、行政をゆがめてもいいのか..... / この発言は、単に詭弁であるだけでなく、自分でルールを決めて始めたゲームで、負けそうになったので勝手にルールを変えるようなものであり、法治国家では通らない理屈である     

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海外勢が拒否反応。現政権が続く限り、日本株は上がらないという厳しい現実=今市太郎(MONEY VOICE);「透明性が低く、しかも首相の夫人が介在した案件が登場し、それに役人が総出で状況をねつ造しているという話が痛く気になるようです。海外の投資家が見る安倍政権の現状というのは、もしかすると国内の人間が感じているよりも、かなり厳しいものになりつつある」


ひるおびダイジェスト(加藤郁美さんツイートより) ; 大谷氏「加計FAXが土曜にペロ〜ンときたんですよ」「それで加計学園に問い合わせたら、今日は答えられないと」 / 恵氏「愛媛県知事は激おこ、今治市長はわりと寛容」 伊藤氏「今治市は財政とてもきびしい。加計学園に62億。その影響はもう出始めていて、これまで出していた米寿のお祝い5万円がカットされている」 / 伊藤氏「これは今までの総理のご意向とかいうのとは訳が違う。実際に認可が下り、しかも当事者がウソをついたと自白している。それに対して総理が怒らないというのは、たいへん不思議なことだ」                    

























2018年5月28日月曜日

千鳥ヶ淵緑道の紫陽花 咲き始め 2018-05-25、28

5月28日、くもり
先週金曜日(5/25、はれ)と今日、千鳥ヶ淵緑道の紫陽花を観に行った。
ちょうど咲き始めのいいころだろうか。

▼2018-05-25
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▼2018-05-28
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久しぶりの家族イエ呑み(長男のお誕生会デス) 2018-05-26

5月26日(土)先週の土曜日
長男のお誕生会。
ま、テイのいい家族呑みのための口実・・・?。

いつもはソト呑みが多かったんだけど、結局二次会は家で・・・みたいなパターンになるんで、じゃ今年は初めからイエ呑みということに。

一応、取り敢えずの仕事のヤマを越えたという次男も参加、一泊していった。

でもね、最近は呑みもいいけど、やっぱりマゴちゃん! なので、ワタクシ結構忙しい。
久しぶりに息子たちとバカ話はしたいわ・・・、マゴちゃんと遊びたいわ・・・。

ということで、朝から夕方まで大忙しの一日だった。
ビールもよく捌けた。





山本太郎 「少なくとも昭恵夫人が関与していたと推認せざるを得ない。人まで死んでいるんですよ。公務員ひとり亡くなっているんですよ。それをまるで自分と関係ないように立ち回り続けるのをやめていただきたい。」 「膿はあなた自身です」









今日の笑点3連発で… 円楽 「安倍晋三です、トランプ氏から国民の声は聞かなくていいと言われました。」 たい平 「麻生太郎です、やかましいィ。」 木久扇 「うるせーなー、沖縄から米軍基地がなくなるのはいつなんだろーねぇ。」




福山議員が示したパネルを、安倍首相が、それは福山議員が作ったストーリーと発言。場内騒然。審議中断。 / 『加計学園にあなた騙され出るんだよー、抗議しないの?』



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【麻生さん、笑う所じゃありませんよ!】 今井雅人議員「(安倍晋三が過労死遺族との面会を拒んだ)その夜、総理は何をされてました? 財界の皆さんと二時間半も食事をしておられた。財界の皆さんにはお会いして、(過労死の)被害にあわれた方にはお会いされないんですか。麻生さん、笑う所じゃありませんよ」









長妻昭氏「財務省職員が亡くなっておられます。これが『美しい国』ですか。国民や国会が虚偽資料や虚偽答弁で騙されていた…。ここで見過ごしたら将来に大きな禍根を残します。国民に本当の事を言わなくなった国が、どういう末路を辿るのか。我が国の昭和の初めの歴史を学べば、自ずからわかる筈です」











▼倫理規定、大臣規範!!!

逢坂誠二、麻生太郎になぜ辞めないんだと直球質問(YouTube)  ; 5/28 衆院・安倍入り予算委員会 逢坂誠二(立憲)の質疑:モリカケ 逢坂「昭恵夫人も加計と海外に行ってるが、その時の経費は?」 安倍「(妻に)聞いたところでは、私の妻は、旅行代金等は、全部払っている」 逢坂「飲食代は?」 安倍「お答えのしようがない。先方が払うこともある」





森友問題 財務省 ゴミの撤去費用の増額要求認める | NHKニュース  ;  “大阪航空局が、当初、6億円台後半と見積もっていたごみの撤去費用について、近畿財務局が増やすよう求めたことを認めました”




小池晃・宮本岳志の追究 ; 財務省、会計検査院の検査報告提出前に原案を入手か(TBS) / 森友問題めぐり財務省・太田理財局長が会計検査院への介入を密談した記録が! 菅義偉官房長官との連携もポロリ / 「最後の砦」の会計検査院、森友学園公文書改ざんの隠蔽どころか財務省・国交省らとグルだった疑い(バザップ!) / 質問・答弁の詳細(動画)







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「悪質なものではない」麻生大臣“森友”文書改ざん(テレ朝);「白を黒にしたとか、改ざんとかそういった悪質なものではないのではないか。いわゆる答弁に合わせて書き換えた.....」 / 麻生氏「また出る」発言釈明 改ざん「悪質でない」 / 麻生太郎財務相 森友との交渉記録「また出て来るかも」 衆院予算委(産経新聞); 麻生氏の答弁に議場はざわめき、(自民党の)平井氏も「大臣が部下を信頼し切っていないのも問題だ」と語り、あきれた様子だった







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2018年5月27日日曜日

ウソはどこかでバレる → 稲田元防衛相【「夫は関与していない」は虚偽だった】「森友の顧問弁護士になる可能性」と発言 財務省文書に記載(日刊ゲンダイ)  / 黒塗り部分は、稲田氏夫 「森友顧問になる可能性」発言:朝日新聞 / 「森友」交渉記録 黒塗り見える状態で掲載 財務省(NHK) ; 稲田の名前が取り沙汰されてる / 森友問題「名前黒塗りの弁護士は稲田元大臣の夫」共産(NHK)



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▼で、こんなことになってるらしい




『帝都東京を中国革命で歩く』(潭璐美 白水社)編年体ノート01 (明治4年、明治29年)

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『帝都東京を中国革命で歩く』(潭璐美 白水社)編年体ノート

はじめに

辛亥革命前後の一九〇〇年代初頭から二〇年代にかけて、日本の年号でいえば明治から大正初めの頃、日本には中国人の留学生があふれていた。明治維新を成し遂げた日本はアジアでいち早く近代化を実現した国であり、清国で「日本ブーム」が巻き起こったからである。日本の成功に学ぼうとやってきた留学生は、最も多い時期には一万人近く日本に滞在し、その九割が帝都東京に住んでいたという。
その一方、清朝の若き皇帝・光緒帝を戴いて、衰退の一途をたどる国政を改革しようと試みて失敗した「改良派」の知識人も亡命してきた。
「改良派」の中で、私は梁啓超(りょうけいちょう)が一番好きだ。日本で十四年も亡命生活を送った彼が自分でつけた日本名は「吉田晋」という。尊敬する吉田松陰と高杉晋作をくっつけた名前だ。広東省から日本へ呼び寄せた家族にも日本名をつけている。それほど日本に惚れこんだということだろう。
やがて孫文や梁啓超の次の時代を担う者たち - 中国共産党を作った陳独秀や李大釗(りたいしょう)、それに周恩来、李漢俊(りかんしゅん)、董必武(とうひつぶ)といった中国共産党の主要メンバー、魯迅、郭沫若、郁達夫(いくたつふ)ら文学青年たちも留学生活を送るようになった。

かつて、早稲田界隈にはチャイナタウンがあって、旅館や料理店、床屋の店先に清朝の国旗・黄髄旗が翻っていたという。神田には清国留学生のための日本語学校や留学生クラブがあり、郷土料理を出す食堂があった。神楽坂や飯田橋界隈には、革命家たちが密談を交わした料亭があり、中国同盟会が生まれたのは虎ノ門のホテル・オークラ本館がある場所である。

早稲田、神田、本郷を散策しつつ、かつて中国革命に夢を描いた彼らが見た帝都東京の風景を想像し、彼らの情熱に思いを寄せながら、往時の歴史をゆっくり堪能していただきたい。本書を散策のお伴にしていただければ幸いです。

私は、「散策のお伴」というよりは中国人留学生群像としてこれを読ませて戴いた

[目次]

はじめに

I 早稲田
第一章 黄龍旗がはためく街——清国チャイナタウン
第二章 頭をふるって顧みず、われは東へ行かん——梁啓超の悲しみ
第三章 知られざる天才——憲政の祖・宋教仁
第四章 戸山の軍人学校——蔣介石の夢と憧れ
第五章 芥川龍之介より日本語がうまい帝大生——社会主義者・李漢俊

II 本郷
第六章 清国人最初の日本語学校——弘文学院
第七章 中国の西郷隆盛——黄興の暮らしぶり
第八章 朝顔の咲く家——魯迅の思い出
第九章 関東大震災(一)——日華学会のなりたちと留学生支援
第十章 関東大震災(二)——本郷、麟祥院に今も眠る留学生たち

III 神田
第十一章 慈愛の宰相——周恩来の目立たない日々
第十二章 最大規模の日本語学校——東亜高等予備学校
第十三章 留学生の憩いの場——清国留学生会館と女傑・秋瑾
第十四章 留学生の胃袋、そして知恵袋——神保町の書店街
第十五章 辛亥革命の後背地——日本各地に孫文伝説

おわりに 三田の話

1872年(明治4年)
清国留学生のアメリカ派遣
清国人最初の留学生だった容閎が名門校イェール大学を卒業して帰国後、アメリカ留学政策を立ち上げて、アメリカ留学は1872年から始まり総勢120名の清国留学生をアメリカへ派遣した。だが平均年齢12歳という幼年留学生たちはアメリカ生活に順応し過ぎたことや、アメリカ政府が陸軍士官学校、海軍兵学校への入学を拒否したことで、清国政府は怒って全員を引き上げた。ヨーロッパの陸海軍への留学生派遣も不首尾に終わり、1880年代には留学制度そのものを停止した。

明治29年(日清戦争終結の翌年
警務学堂から選抜した清国官費留学生13人の日本派遣
この年、清国の総理事務衙門(外務省)は、駐日公使裕庚を通じて日本の外務大臣(兼文部大臣)西園寺公望に留学生の受け入れを要請。西園寺が旧知の嘉納治五郎に相談を持ちかけると、嘉納は即座に快諾し、自宅近くの神田区三崎町に民家を借り、東京高等師範学校教授の本田増次郎を主任に指名して、寺子屋方式で日本語を教えた。理科、数学、体操などの科目は、高等師範学校の教室や設備、校庭を使った。教育期間は3年と決めた。すべてが手探り状態だったが、嘉納は嬉々として教育した。

20世紀初頭の日本は、清国の青年たちの強い興味を引いた。欧米の文化と近代科学を吸収して近代化を成し遂げ、無血革命ともいえる明治維新を実現した国であり、アジアで唯一、欧米列強と肩を並べる近代国家だったからだ。とりわけ注目したのは、明治28年、日清戦争に日本が勝利したことだった。小国ニッポンがなぜ大国の清国に勝ったのか、その秘訣を知りたい。日本が輸入した西欧の近代科学も学んでみたい。おまけに日本は「安・近・単」 - 欧米諸国へ行くより費用が安く、距離的に近く、同じ漢字圏だから勉強するのも簡単そうだ。西欧の書物を辞書を引きながら読むよりも、日本語に翻訳されたものを読むほうが効率的だろうという安易な想像も手伝って、清国留学生が増加していった。

(つづく)