2018年5月1日火曜日

「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)編年体ノート20 (明治38~39年)

北の丸公園
*
明治38年3月(結婚してから13年後)
卓の妹槌が子供たち共に上京、滔天を含め家族揃って一つ家に住むようになる。

明治39年
宋教仁と前田卓
明治39年1月31日の宗教仁の日記に、前田卓の名前が初めて登場する。
「午後三時、民報社に行ったとき、急に座骨に激しい痛みを感じたので、しばらく横になり、前田氏に願ってそこをたたいてもらった」とある。
座骨神経痛はその後も続いたらしく、2月2日には「午後五時、民報社に行き、前田氏に願って薬を座骨の患部にはってもらった」と。
宋はこの頃から、激務と人間関係で体調を崩し、神経衰弱になっていく。

8月、宋は豊島郡滝の川町田畑の東京脳病院に入院するが、そんな宋に対して卓は親身に世話をする。
宋教仁の下宿を訪ねて民報社のことを報告したり、帰国する留学生の送別会や滔天の家に遊びに行こうと誘ったりと、何かと気持ちを引き立てようとしている。そして、入院のために引き払った下宿の荷物を整理し、民報社で預かる手配をしたのも卓だった。黄輿らと一緒にたびたび病院に見舞いにも訪れ、「九州熊本の私の実家に住んだらどうだ。私の実家は海辺にあって、ごみごみした道からも遠く離れているからひじょうに静かで療養するには適している」と、転地療養を勧めた記述もある。本邸は焼失し、漱石らが泊まった別邸も明治37年には人手に渡っていただものの、鏡が池のある別邸はまだ人手に渡らずに残っていて、母親が住んでいた。病んだ神経には静かな環境が一番と考えたのだろう。そして最終的に宋は、11月4日に退院し、卓や黄輿の勧めで新宿番集町の滔天と槌夫妻の家に落ち着くのである。

同志前田卓
民報社での卓の役割は一種の同志的存在でもあった。
宋教仁は日記で一貫して「前田氏」と書き、彼女が黄興や滔天らの会合に同席したり、『民報』の認可証の手続きを取る役割を果たしているとの記述もある。けれども彼の日記では、問題のある部分は慎重に避けられており、それ以上のことは分からないが、卓は彼らにとって同志だった。

二枚の写真がある。
一枚目は、ポーランドの革命家ピウスツキの来日を記念して民報社の庭で撮られた記念写真。
ユゼフ・ピウスツキは、第一次大戦後の1918年、ロシアの支配からポーランドを独立させ、初代大統領になったポーランドの建国の父である。ロシア皇帝暗殺計画に連座するなど反ロシア政府活動を行い、シベリアに流刑されていたが脱走し、明治38年7月、日本にやってきた。ポーランド社会党の代表として、ロシア軍の軍事情報の提供や、軍隊内部や後方の撹乱工作をすることなどを条件に、ポーランド独立に対する日本政府の援助を要請する目的だった。軍人や外務省官僚と会談を重ねたが、日本政府側はポーランド独立を公的に支援することは拒否した。しかし、裏面での軍事情報の提供や工作と引き替えに、資金と武器の提供を行うことにした。

写真は、翌明治39年に再び日本に来た時のもの。
宋教仁の同年3月10日の日記に、滔天の兄宮崎民蔵に誘われてピウスツキを訪ねたという記述があるので、その後、宋らが民報社に招待したと思われる。前田槌「亡夫滔天回顧録」にも「ピリスツキーさん」が登場し、それによれば、ピウスツキはその再来日の時、ロシアの亡命革命家とともに滔天のもとを訪れ、その紹介で孫文とも出会い、ともに助け合うことを誓い合ったという。滔天や民蔵、宋教仁ら中国人と日本人25人が集うその写真に、唯一の女性として卓が写っている。
もう一枚の同じ民報社の庭での革命家たちとの写真でもやはり女性は卓1人。雪のうっすら積もった冬の写真で、民報社が立ち上がった38年初冬から翌年2月ごろの写真だろうか。
民報社には「下女」とされる女性が2~3人はいたらしので、卓は、面倒見の良いおばさんとして特別に写真に入れてもらったのではなく、同席するのが当然の同志だったことを、この2枚の写真は示している。

卓自身が語った民報社に関するエピソード(『漱石全集』「月報」での談話)

いよいよ上京して参りました時には、わたくしは最初養老院にでも入って、手頼りないお年寄のお世話でもしようと存じましたが、そんな事をする位ならと勧める方があって、当時日本に亡命していた支那革命の大立者黄興や孫文一党の民報社に入ってその世話をするようになりました。その間の事情は話せば長いことになりますが、「小母さん、小母さん」と重宝がられまして、随分危殆(あぶな)い橋を渡ったこともございます。支那革命の最初の旗を決めるときなぞも、いろいろ談論が岐れまして、所謂旗争いの果しがありませぬので、仕舞にわたくしが「それじゃわたしの腰巻がまだ一度締めたばかりだから、これでも使っては何(ど)うだ?」と、出してやったこともありました。つまり支那の国旗の最初の旗はわたくしの腰巻から出来たというような、滑稽なこともございます。

ここで、卓は
①「随分あぶない橋を渡った」ということと、
②革命家たちの国旗を決める論争を仲裁した
という二つのことを言っている。

上村希美雄「『草枕』の歴史的背景」で紹介されている「あぶない橋」のエピソード。
「一度などは商人のおかみさん姿に変装して、同じく前垂れ姿で故国へ密行する亡命の同志(劉道一?)に同伴、神戸港まで送り届ける役割を果たした」。つまり、帰国する要注態人物を、変装して神戸まで送り届けたという。孫文や黄興ら革命家には、清国政府の懸賞金がかけられており、スパイや暗殺者も横行していた。革命家もその周囲の人間も命がけだった

このエピソードを歌った槌の和歌(「槌子夫人歌稿(抄)」)。

「劉氏あづまおち。神戸三上氏の汽船に内々たのみ、しゆびよくのかれ〔逃れ〕たり」として

かくおびにまえかけたれし唐人の人目に見するあづま商人(あきうど)

また、「我が姉上賤の女とよそふひをかへ、町家の主婦を見たるはんてんすがたに、供に神戸まで送り出さる」として

かみかたちよそふは賤(しづ)のうば桜人目もわかぬ春の夕暮

そして、「しのふ旅路の二人」として

流れゆく電車(くるま)はさけてうらぐらき道ぞ辿るはたそがれの徒歩(かち)

「劉」という留学生は何人もいるが、革命家では、道一と兄揆一だけ。劉揆一は、華興会の中心メンバーで、同盟会に入ってからも幹部として活躍した。その兄の影響を受けた劉道一は、兄とともに留学し、女性革命家として知られる秋瑾とともに演説練習会を行ったり爆弾作りを学ぶなど、過激な活動をしていた。その道一が、39年11月、父の病気の報せを受け、兄に代わって帰国した。
道一はこの時22歳。そして帰国後間もなく、12月4日の同盟会として最初の武装蜂起の準備をしていて、逮捕、処刑された。

(つづく)






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