2014年9月13日土曜日

マヤ・アンジェロウ『街よ、わが名を高らかに-マヤ・アンジェロウ自伝2』(矢島翠訳)を読む

マヤ・アンジェロウ『街よ、わが名を高らかに-マヤ・アンジェロウ自伝2』(矢島翠訳)は、『歌え、翔ペない鳥たちよ マヤ・アンジェロウ自伝』に続くマヤ・アンジェロウの自伝第二部。全五部作のうち邦訳はこの第二部まで。

マヤ・アンジェロウは今年(2014年)5月28日に86歳で亡くなられた。
亡くなられた時の記事はコチラ ↓
オプラ・ウィンフリーが師と仰ぐ黒人女性作家マヤ・アンジェロウが死去 (Masako Iwasaki) / Hate, it has caused a lot of problems in the world, but has not solved one yet. (憎しみ、それは世界中で数々の問題を引き起こしてきたが、問題を解決したことは一度としてない)

また、第一部の読書ノートはコチラ ↓
マヤ・アンジェロウ『歌え、翔ペない鳥たちよ マヤ・アンジェロウ自伝』(矢島翠訳)を読む : 「できないというのは、構わないというのと同じ」

この第二部の原題は『Gather Together in My Name,1973』というもの。
訳者あとがきに、この原題の持つ意味が書かれている。

「第二部の原題は直訳すれば「わが名によりて集まれ」で、新約聖書のマタイ伝十八・二〇「二、三人わが名によりて集まる所には、我もその中に在るなり」を踏まえている。アンジェロウによれは、自分が若いころおかしたあやまちを率直に語り、孤立感をいだいている黒人の若者たちに勇気を与えたいーというニュアンスもこめたという。」

さてまず第一部のことであるが、上のワタクシの読書ノートでは全体が全く見えないので、訳者あとがきによりその概要を紹介する。

「第一部は、マヤの両親が離婚したのち、三歳と四歳の兄妹が手首に荷札をつけられて、カリフォルニアからアーカンソーの祖母の家に到着するところからはじまる。南部の黒人社会(とくにその教会)の伝統にはぐくまれて過す幼い日々。やがてセント・ルイスの母のもとに引きとられたマヤは、八歳のとき母の愛人に強姦される。事件の裁判では、証言台に立たされる。「私は八つだが、もうおとななのだ」
突然少女期を奪い去られた喪失感と、それを乗り越えて成熟するためのたたかいが、ただでさえ平坦ではありり得ない黒人の女の人生を、一層波瀾に富んだものにする。アーカンソーの生活の「繭のなかに」しばらくもどったあと、今度は父の愛人と喧嘩して、浮浪児たちの群に入る。あるいは猛然と反差別闘争を展開して、サンフランシスコの電車の車掌に就職したりする。自分のセックスに疑惑を持った結果、近所の男の子を誘惑し、正常な女性であることは証明できたが妊娠してしまい、高校卒業と同時に、未婚の母となる。
- ここから、第二部に入るのである。」

そして、第二部の本書に続いてくる。
さてさて、第二部の中身は、これがまた、まことにすさまじい。これも概要紹介は訳者あとがきに頼ることにする。

「十七歳で未婚の母となった南部生れの黒人人女性が、サンフランシスコに出てコック、ウェイトレス、ショー・ダンサーなど手当り次第の仕事で自活し、次々と男に惚れ、だまされ、捨てられ、売春宿の経営にしたたかな手腕を発揮したかと思うと、今度は自分が身を売る境遇になる。日本で平穏に暮らしているほとんどの若い娘たちにとっては思いもよらぬような、劇的な波瀾をくぐりぬけた一時期について語っているこの第二部でさえ、「読者が、もう結構と本を投げ出したくなるような、いくつかのメロドラマ的な事件」ははぶいた結果だという。」

あとがきによれば、邦訳未刊行だけれど、第三部以降になってようやく、はらはらせずに読み進めそうだ。

「第三部では、ギリシア系アメリカ人(アンジェロウという名前は、この最初の夫の姓である)と短い結婚生活を送ったあと、マヤが本格的なショー・ビジネスの世界に乗り出し、黒人歌劇「ポーギーとべス」の海外公前のメンバーに抜擢されて旅立つ婆が描かれている。そして雛四部は、マーティン・ルーサー・キング師のもとでの公民権運動の時代となる予定だ。」

本書、第二部の冒頭は、第二次大戦中は兵士や産業戦士として胸張って生活していた黒人が、だんだんと元気をなくしボロ切れのようになってゆく様が描かれ、そういった状況下で子持ち17歳の黒人女性である著者の生活が始まる。

「二、三カ月前までほ凱旋の英雄だった人たちだったが、わけ知りの町サンフランシスコで除隊となったあと、その所在なげな姿は、裏の垣根に干したまま忘れられてしまった洗濯ものさながら、黒人街の街角に目につくようになった。かつてはピンとのりがきいていたカーキ色の軍服も、しだいによれよれになっていた。勲章は残し、階級章はとりはずしたGIジャケットと、流行おくれになったズート・スタイルの、裾をしぼったズボンといういでたち。左右折り目のそろった、きちっとした軍服のズボンと、けばけばしい色彩が狂い咲きしているアロハの組合わせ。靴はそのままだった。靴だけは。米国陸軍は靴よ永遠なれ、とこしらえたのだ、いまいましいが、その通りになった。
こうしてわたしたちは大きな戦争をくぐりぬけた。黒人街における問題は、小さな平和の時代にも、われわれはやって行けるだろうか?ということだった。
わたしは十七歳、ひどく年をとり、でも困ってしまうほど若く、二カ月の男の子の母親で、そして相変らず母と継父の家で暮していた。」

「家を出て、職をみつけ、全世界(息子の父親のことだ)に、わたしという人間が、自分の持っている誇りに見合い、自負している以上にえらいことを示してやろう。」

が、サンフランシスコのレストラン、サン・ディエゴのナイトクラブで働くんだけれども、うまく行かないで家に舞い戻ることになる。

「サンフランシスコの坂も、サン・ディエゴのシュロの木も、売春も同性愛も、カーリーとの別れで声もかれるほど泣いたことも、すべてそんなことは起りっこなかった彼方に消え去った。わたしはわが家にいた。」

実際には、家に舞い戻る前に著者はまず祖母のもとに逃げ帰る。第一部にあったように著者は祖母に育てられ、祖母を「ママ」と呼んでいる。

「背にはわが息子を載せ、胸には恐怖のかたまりをいだいて、わたしはまっしぐらに逃げた。おおよその目的地は、わたしが育ったアーカンソーの小さな村だった。だがほかならぬ行き着く先は、わたしを育ててくれた祖母アニー・ヘンダーソン夫人の、危難を防いでくれる腕のなかだった。わたしたちがママとよんでいたその人は、慎重なくらいロが重く、考えの正しい人である。そして何よりも、いまの時点でわたしに一番欠けているものが、ママにはあるのだ。勇気が。」

また、サンフランシスコからサン・ディエゴに移るときは、兄がお金を援助し、母が著者を励ます。
こうだ。

「「やろうとしたら何でも最高になることよ。夜の女になるつもりなら、それがあなたの人生。とび切りいいのにおなり。何でもごまかしてするんじゃない。自分のものにする値うちのあるものは、働いて手に入れる値うちあり、だわ」
「ハムレット」でボローニアスが息子のレーアーティーズにする説教を、母流にいい替えたものだ。その教えをふところに、わたしは外に踏み出し、自分の将来を買いに行く。」

次に彼女は陸軍兵士に応募して合格する。
しかしここでも波乱万丈の波(マッカーシズムの波)が彼女を襲う。

「「カリフォルニア労働学校は下院非米活動委員会のリストに載っているのですよ、ジョンソン。そのわけがわかりますか?」
「いいえ、あそこでは舞踊と演劇を勉強しただけです」
「さあさあ、馬鹿なふりをしないで。あれは共産党の組織です、知っているはずだ」
「そうかもしれませんが、わたしは一度だって入党したことはありません」
「この学校に二年間、通いましたね」相手はもとの落ちつきと、いかつさを取り戻している。
「でも十四から十五にかけてのことです。南部から出てきたばかりのわたしを、体育の先生がそこの奨学生にしてくれたのです。ひとと話すのがへただったからかーー」」

その後もウェイトレスやダンサーや、またクスリやアブナイ商売を繰り返し、読者としては「もう結構」寸前の状態となる。
そして結局、子どもを連れて家に戻ることになる。
第二部のエンドはこうだ。

「翌日わたしは衣類とトランクを持ち、ガイを逃れて、母のもとに帰った。自分の人生をこれからどうするか、見当はついていなかったが、わたしはすでに約束をむすび、自分のけがれなさに気づいたのだ。それをもう二度と失うまい、とわたしは誓った。」

以下は、本書の筋とは一応離れてのワタクシのノート。

1.著者の陸軍入隊が決まった時の兄の態度・・・

「ベイリーは、もうすぐ陸軍に入隊するのよと話すと、わたしを冷やかな目でみつめて、好奇心の気配もなしに質問を投げかけた。「なんで、くそ面白くもないことするのさ。みんな兵隊にとられまいと必死になってるのに、ぼくの妹は入りたくてたまらないのか。おめでたいプレイガールだよ」ベイリーとわたしの間の雰囲気は、おとなになるにつれぎすぎすしたものになって来たが、その傾向は兄の冷笑的な態度のおかげで一層強まっていた。兄にはもうわたしをまともに理解してはもらえなかったし、わたしの方では、兄が黒人の男として味わっている人生に対する失望を、見ぬけなかったのだ。」

2.母親の紹介でレストランのコックとして向かうストックトンという町の描写

「ストックトンには一風変った雰囲気があった。サン・ウォーキン谷の農業地帯にあるこの町は、ながらく巡回労働者や、どん底をついた農場を見捨てて来た南部の人たちや、貧困に悩む祖国を離れて、二十世紀初頭以来とぼしい収入で大家族を養って来たメキシコ人やフィリピン人にとっての中心地となっていた。第二次大戦中には、この地域のドックや、ほど近いピッツバーグの造船所や軍需工場での仕事目当てに南部の黒人たちが流れ込み、ストックトンの血統はゆたかさを増していた。
わたしが町に入った頃、街頭には「西部無法地帯」のリズムが感じられた。一部の工場はまだ操業していたし、警察もまだ犯罪撲滅に乗り出していなかったので、週末になるとサンフランシスコやロサンゼルスから売春婦や博打うちがやって来て、かもになりたがっているここらの田吾作どもから、まき上げて行くのだった。」

3.ふつうの女の子と同じ夢や悩み

「付録にささやかなロマンスを生んだ「プールとリタ」のコンビが解消したあと、わたしは恋人の腕よりも、舞台と音楽と観客の喝采に渇えていた。
でも農村地帯の小さなレストランでフライパン料理専門のコックとして働きながら、わたしの追う夢は、同じ年ごろの女の子のだれかれと、変り映えしないものだった。あの人は来てくれる。来るはずだ。つとわたしの人生のなかに歩み入り、わたしをひと目みて、久遠の愛に陥る。大方の若い女が持つ悩みを、わたしも味わっていた。」

4.結婚1年で妻が病死してしまう時の兄の様子、兄妹の関係、兄が勤めを辞めたてしまったことを非難するパパ・フォード(母の現在の夫)

「兄はまた八つの子どもにもどっていて、人を信じ切っていた。兄の大きな、涙に濡れた黒いひとみは、自分の深い悲しみをわたしが何とかしてくれるだろうと信じたげに、わたしをみつめていた。自分には魔法は使えないのだと、わたしにはわかっていた。兄が最もわたしを必要としているこの時に。」

「パパ・フォードは感心しないしるしに、しかめっつらをしてみせた。「兄さんのいうことはわしの耳にゃ気が違ったみたいに聞えるで。仕事をやめるつうで。いまは鉄道をやめる時期でないに。食事はただ。バターだのなんだの、うちに持って帰れる。んだな? わしの見るとこ、くろんぼの男が世間へ出て行ける道は二つしかないで。昔なじみのサザン・パシフィック鉄道様に乗って寝るか、いまから道はたで寝ることにするか、どっちかだに。・・・」

「ベイリーは夜通し帰って来ないようになった。帰って来たときにはまぶたははれぼったくて、動作はのろのろとしていた。兄が入って来るのに先立って、よごれた衣類の臭いが立ちのぼった。兄の眼は自分の秘密をみつめて半ば閉じられていた。」

5.ダンサーに賭ける夢

「「プールとリタ」(*ペア・ダンサーの名)はシャンペン・サパー・クラブと契約を結んだ。得意のあまりわたしは、あとさきを顧みなかった。勤めをやめてしまったのだ。きらきら光るスパンコール付きの水着と紫いろのサテンのタップ・シューズを、ウェイトレスの前掛けや、婆さんじみた毛のえり巻と替えられますかっていうんだ。わたしは「鶏小屋」のことをちらとでも思い浮べて、わがミューズ、踊りの女神テルプシコレをないがしろにしたくはなかった。」

(おわり)




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