2016年7月31日日曜日

東京の美術館 10選 | 口コミでおすすめ / 根津美術館「はじめての古美術鑑賞」 / 太田記念美術館:企画展「怖い浮世絵」8月2日(火)~28日(日) / 9月3日~10月30日 太田記念美術館 特別展「国芳ヒーローズ~水滸伝豪傑勢揃」







メアリー・カサット「沐浴する女性」 親しみ湧くのはなぜか (『朝日新聞』2016-07-26)

メアリー・カサット「沐浴する女性」
親しみ湧くのはなぜか
(『朝日新聞』2016-07-26)


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天正2年(1574)5月1日~6月30日 伏見城の三淵藤英と槇島の細川信良が追放される 秀吉による長浜城・城下町建設 武田勝頼が徳川方の高天神城陥落 越前が加賀と同じく「一揆持」の国となる [信長41歳]

皇居東御苑 2016-07-28
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天正2年(1574)
5月1日
・北条氏政、上杉勢の関東における前線基地上野厩橋城に進軍。
東上野の由良氏が北条氏に従う。
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・信長、伏見城の三淵藤英と槇島の細川信良を追放。
三淵藤英は細川藤孝の実兄。将軍義昭に最後まで忠誠を尽くし、二条城に信長軍の攻撃を受け降伏。しかし、伏見城を安堵され淀城攻撃にも参加する。
その後、信長の逆鱗に触れ(詳細不明)伏見城を追われ、子秋豪と共に明智の坂本城に預けられ7月6日親子共切腹。
細川信良は細川家嫡流。槇島追放後は僅かな知行に甘んじる。
伏見城破却後、塙直政を山城守護に補し、槇島城に駐留する。

山城の支配体制:
①京都(村井貞勝)、
②西岡(細川藤孝)、
③北山城(明智光秀)、
④南山城(塙直政)。
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5月5日
・賀茂祭(葵祭)。
信長、自身の馬を競馬神事に参加させる(信長公記)。
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5月8日
・武田勝頼2万4千、遠江侵入。
12日、高天神城(小笠原長忠、静岡県小笠郡大東町)包囲。小笠原長忠は浜松(高天神城30km)の家康に救援要請、家康は在京中の信長に対して救援を求める。家康は浜松に留まる。
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5月11日
・伊達輝宗、最上義光・義守・義時の内紛に介入、最上領に侵入。
20日、輝宗、最上義光と出羽村山郡千石で戦う。
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5月15日
・信長、京都で勝頼の遠江出陣知る。
16日、京都発。大和へ下国。
28日、岐阜城に下向。
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5月17日
・秀吉、河内の遊佐盛へ、保田知宗(紀伊在田郡八幡山城主)に人質提出督促を命令(「寸金雑録」)。
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5月19日
・真田幸隆(62)、没。幸隆の嫡子信綱が家督を継ぐ。
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5月20日
・信長、秀吉に、若狭・丹後の船を敦賀郡先端の立石浦に着ける準備をさせる。越前(一向一揆)侵攻の準備。
この月、越前織田の朝倉兵庫が謀反。
七里頼周・本覚寺・専授寺が兵を率い攻撃、朝倉兵庫は秀吉が敦賀の立石浦より救援のために遣わした船に乗って逃れる。
一揆勢は、大谷寺・永平寺など国内の非本願寺派寺社を次々と焼き討ちという。
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5月23日
・村井貞勝、明智光秀とともに、賀茂社中に、結鎮(みけち)銭代米を安堵する(賀茂別雷神社文書)。

賀茂別雷(わけいかずち)神社は上賀茂神社の正式名で、起源は7世紀天武天皇の時といい、平安時代初期には賀茂御祖(みおや)神社(下鴨神社)が分かれている。
賀茂別雷神社は賀茂六郷を神領として保ち、そのほか東は三河、北は能登、西は周防・伊予にまで社領を持っていた。しかし、戦国時代になると、現地の武士たちに押領されて実質的にそれらの社領は失われていく。賀茂六郷にしても、大徳寺の塔頭や新興商人である土倉などが名主職・作職の権利を買い取っていき、次第に追いこまれていった。

元亀3年頃のものと思われる大徳寺宛ての信長の朱印状
「賀茂境内の当寺買得分の儀、相違あるべからざるの由、今度重ねて朱印を進ぜ候。これに依りて使僧を差し下され候。殊に銀子百両御懇情に候。猶(松井)友閑申すべく候。恐惶敬白
六月廿三日                                  信長
大徳寺尊答

大徳寺と賀茂別雷神社との間に、土地の権利をめぐって争いがあり、信長の裁決を必要とした。
有利な裁決を得るために、大徳寺から百両の銀子が信長に届けられ、それに対する礼状。
この後、文面にある通り、同日付の松井友閑副状が大徳寺宛てに発せられる。
さらに2日後、上賀茂神社にも申し伝えられている。
現地で事を処理する奉行は、塙直政と木下秀吉。
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5月25日
・上杉謙信、西上野の武田方属城を攻略、由良成繁・国繁と戦う。
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5月25日
・仏、ガブリエル・ド・モンゴメリー、ドンフロンの包囲戦でマティニョン元帥に捕らえられ、「反逆罪」でパリ・クレーヴ広場で斬首。
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5月26日
・~10月、スペイン軍、ライデン包囲再開。
ライデン、ルイの来援で包囲が解けてる間に補給を怠る。飢餓・疫病、6~8千病死。
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5月29日
・仏、懺悔火曜日の陰謀の罪でダランソン公フランソワ(シャルル9世弟)に仕える貴族ラ・モール伯(マルゴの愛人、プロヴァンス地方出身伯爵)、ココナス(ヌヴェール公爵夫人の愛人、イタリア出身伯爵、フェリペ2世の諜報工作員)、逮捕、処刑。
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5月30日
・仏、シャルル9世(24)、没。
ポーランド国王ヘンリク(23、シャルル9世弟ダンジュー公アンリ・ド・ヴァロア)、アンリ3世として即位するため密かにポーランドを去る(6月19日)。
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6月1日
・房総の里見義堯(63)、本拠久留里城で病歿。
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6月1日
・信長、上杉謙信に豪華な京の風俗画「洛中洛外図屏風」を贈る(異説あり)。
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6月5日
・信長、武田勝頼の高天神城(静岡県城東村)包囲中の報うける。
尾張の佐治左馬允へ、「遠州在陣衆」の兵粮米を「商買之八木船」で搬送するので商人へ順路等の連絡を命令(「反町十郎氏寄贈武家文書展覧会解題目録」)。
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6月6日
・秀吉、新しい今浜城と城下町の建設にとりかかる。
この日、平方の名主・百姓に、8日の長浜域普請の人足役を課す。
7日、下八木郷に命じ、9日の城普請の人足を課す。
7月16日、唐川、布施、高田(伊香郡)へ、長浜城築城の人足、1軒に1人課す。
8月22日、長浜町人宛書状。
小谷より、徳勝寺、妙法寺、善隆寺、願養寺、浄琳寺、城の鬼門の守護として知書院を移転させる。城下町を49町に分割、これを10組に分け、町年寄を決め世襲とする(長浜10人衆)。この10人から3人づつ互選して自治させる(長浜3年寄)。

長浜城:
3層の天守閣は小谷城鐘丸を移築。天秤楼は新築、石垣等その他の城楼は小谷城より移築。小谷より、大谷市場・伊部・郡上・呉服の商人を移住させる。 

天文年間、近江六角氏が城下石寺新市を楽市として、旧座商人をはじめ新儀商人・手工業者招致に努めるが、秀吉はこの方向で城下町経営を一段と進める。
長浜築城に際し、城下に新しく町を区画し、近在の市場聚落小谷町民(浅井氏城下)を移住させ、町場の年貢・諸役を免除し、領分内散在の商工人や「よそのりやうちのもの」に対しても来住を奨励。
しかし「われわれりやうぶんのざいゝゝの百しやうを町へよびこし申候事」は「くせ事」とし、領分内百姓の町人化は厳しく禁じる。
在=農村の百姓と町のまち人とをはっきり身分的に分離し、百姓の町人化は厳禁する。農民を土地に緊縛し、中世社会の経済発展の生みだした商工人を農村から引離して、城下町に集住させ直接の統制下において、新しい領主経済発展の担い手たらしめようとする、後年秀吉によってほぼ完成されたといえる農商分離政策の基本的志向は明確に打出されている。
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6月9日
・信長、美濃の根尾右京亮・根尾市助・根尾五郎兵衛へ、高天神城救援出陣に際し、「越州一揆」蜂起がありえるため防御を堅固にすべきと命令(「高尾宗豊氏文書」)。
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6月10日
・武田勝頼2万5千、小笠原長忠の遠江高天神城を総攻撃、塔尾曲輪を落とす。
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6月11日
・村井貞勝、伊勢内宮の仮殿遷宮について、神宮伝奏柳原資定より尽力を依頼される(柳原家記録)。
16日、再度柳原資定より、神宝や装束調製の命令を催促される(柳原家記録)。
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6月12日
・信長、信忠・佐久間信盛を遠江高天神城救援に向かわせる。
14日、信長、嫡男信忠殿と共に高天神城救援に向け岐阜城出陣。
17日、三河吉田城(徳川家家老酒井忠次、豊橋)着陣。
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6月17日
・カトリーヌ使者シェムロー、ポーランド王アンリの許に到着。
19日未明、ポーランド王アンリ、秘かに王宮脱出。ウィーン→ベネツィア→サヴォイア→フランス(リヨン)。 
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6月18日
・高天神城陥落
武田勝頼、徳川方の遠江の高天神城(織田信忠(17)後詰め)猛攻。小笠原長忠は投降し開城。
高天神城は天正9年まで勝頼の侵攻拠点としてその機能を果たす。
城兵の一部は浜松に退去、一部は長忠と共に勝頼に仕える。
勝頼滅亡後、長忠は北条氏の許に走るが、信長の命で殺害。
9月、(高天神城攻略の恩賞として)勝頼、信濃の金山衆に遠江の榛原郡内300貫文を宛行う。
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6月18日
・信長、遠江今切の渡し(浜名湖の渡し)に着陣、高天神落城の報に吉田城に引き返す。家康に黄金を皮袋2つ分寄贈。
21日、岐阜に戻る。
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6月23日
・信長、九鬼嘉隆に命じ、長島一向一揆に対し安宅船により海上封鎖させる。
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6月29日
・信長、上杉謙信へ全7ヶ条の「覚」を発す。
謙信からの来秋の信濃・甲斐方面への出撃要請を承諾、9月上旬頃の出陣を予定(詳細は協議の上で決定)、武田勝頼は若輩ではあるが「信玄掟」を遵守しており表裏もあるので油断は出来ない、など。
また、信長の戦略は、大坂表は畿内軍勢に委任し、「東国」へは近江・尾張・美濃・三河・遠江の軍勢で出撃(「上方之行」と「東国」の件は「懸組」ではない)とする。詳細は山崎専柳斎が伝達。(「上杉文書」)。
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6月30日
・オラニエ公ウィレム、スペイン軍のライデン占領を阻止するため堤防を設けることを提案。
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6月下旬
・越前一揆勢、信長より木ノ芽城守備の阿閉貞征を攻撃、本願寺門徒の武装講集団鑓講や北ノ庄勢の奮闘により貞征は城を捨てて退去。
一揆は、越前嶺北地域を支配下に収めほぼ越前全域を制圧、越前は加賀と同じく「一揆持」の国となる(「信長公記」)。
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2016年7月30日土曜日

(写真) A smile in the sky!


町内会盆踊り2016 2016-07-30

7月30日、毎年恒例の盆踊り大会。
まだ7時前なのに生ビール3杯目。
一応ひと通り屋台も見たし、3杯目は家で飲も。
家、すぐそこだし。



デジャブ感あったので、念のため確認したら去年も同じようなことしてた。
(但し、ビール、400円→500円値上げ!)

わが町 恒例の町内会盆踊り大会 夕陽とシルエット富士山 2015-07-25






葛飾応為『夜桜美人図』 ”光と闇”を追い求めた伝説の絵師 (美の巨人たち2016年4月23日) メモ


美の巨人たち(2016年4月23日)
葛飾応為『夜桜美人図』 ”光と闇”を追い求めた伝説の絵師


「美人画においては自分の娘にはかなわない」
と葛飾北斎をして言わしめた娘・応為(おうい)の最高傑作『夜桜美人図』

愛知県小牧市のメナード美術館蔵(展示されていない)
絹地に描いた肉筆絵

北斎は二度の結婚において6人の子供(2男4女)がいた
そのうちただ一人絵師になったのが応為(本名;お栄)

応為の生涯については殆どわかっていない
南沢等明という絵馬の絵師に嫁いだが、
亭主より絵がうまくて結婚生活がうまくいかなかったとか(?)

応為の絵の特徴は、その光と闇の描き方
応為のもう一つの傑作『吉原格子先之図』

『夜桜美人図』のモデル;女流俳人の秋色女(しゅうしきじょ)
(上野公園内の清水観音堂で俳句を詠んだといわれている)




絵は、何種類もの光が描かれていて、夜の空気が漂っている。

灯籠の灯りが短冊に反射し右腕を照らしている

着物は大振袖(当時の江戸では、ねずみ色と茶色が好まれた)
帯は結びたらしている

振りからのぞく
長襦袢の緋色(赤)が、絵全体の中で映えている

衣装の上には裏彩色という技法を駆使して微妙な陰影が描かれている


裏側から色を入れてゆくことで表の陰影を滲ませることなく描くことができる


この影の表現は日本画の伝統にはないもので
応為は西洋絵画の知識を持っていたということがわかる

応為は、伝統的な日本画の手法と西洋の陰影法により
ほの暗い夜の江戸を表現した

父の北斎も西洋絵画の陰影表現の知識をもっていた

そしてもうひとつの光、夜空の星
赤い星は温度の低い星
青い星は温度の高い星
というように、色がつくことにより
星空に奥行きや質感が出るようになっている

北斎の『二美人』と比べると
北斎は応為ほど光に敏感でなかったことがわかる
光と闇を極めたのが応為(お栄)である

北斎晩年の作『富士越龍図』と並べてみると
その構図が似ていることがわかる

関連記事
産経:浮かび上がる幻の女絵師 葛飾応為「吉原格子先之図」 太田記念美術館 北斎の娘 「80歳を過ぎた晩年の北斎の制作助手をしていたことが知られている。北斎にして『余の美人画は、阿栄におよばざるなり』といわしめ…北斎の肉筆美人画の代作をしたともいわれる」

あまり知られてないけど葛飾北斎の娘が天才過ぎてため息が出るレベル(NAVERまとめ)

『百日紅(さるすべり)~Miss HOKUSAI~』予告編90秒 (Youtube)

原恵一の監督作「百日紅」、ファンタジア国際映画祭で今敏賞など3冠に輝く — 映画ナタリー














「土用の丑の日」はいらない 鈴木智彦、Wedge取材班 PART 1 お祭り騒ぎはもうやめよう 不正が常態化するウナギ業界 PART 2 ウナギ密輸入 闇の台湾・香港ルートを追う (『WEDGE』8月号) / TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」(平日夜10時~)29日(金)のメインは裏社会の取材を続ける鈴木智彦さん渾身の取材報告「ウナギ業界の闇」


「土用の丑の日」はいらない
鈴木智彦、Wedge取材班
PART 1 お祭り騒ぎはもうやめよう 不正が常態化するウナギ業界
PART 2 ウナギ密輸入 闇の台湾・香港ルートを追う


【低劣】これほど低劣な都知事選を見たことがない。軍事オタク、原発、ヘイトを徹底的に隠し、自民党都連と「闘う」小池劇場を演出し、片や週刊文春、新潮で10数年前の女子学生との「淫行」未遂とかき立てる。ガーディアン紙は中傷戦術と見る。— 金子勝 / ガーディアン紙「政治的暗殺の技術は、この国の支配層によってよく磨かれており、彼らはめったに失敗しません。」




「相模原の事件の犯人の思想は生物学的にも完全にまちがっていて、進化の過程では強い種が生き残ってきたのではない、多様性を尊重した種が生き残ってきた。」 (福岡伸一)




「弱者を抹殺する:優れた遺伝子が生き残るのが自然の摂理ではないのか」という Yahoo!知恵袋の質問に対する進化学な見地からの丁寧な回答。 → 我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンスの生存戦略だということです

誰にも正義は押し付けられない (小田島隆 日経BP) ; 「いずれも(曽野綾子も植松容疑者)、人間の価値を「社会のために役立つかどうか」で評価するという前提を共有している点では同じだ。」 / 小田嶋さんの書いたものを読んで、一つ言い足したいことを思いつきました。それは「弱者を含んでいる組織の方が、集団として生き延びる力が強い」ということです。この人類学的教訓を古来無数の物語が伝えています。 — 内田樹



片岡球子 「面構シリーズを中心として」 神奈川県立近代美術館 鎌倉別館 7月30日~9月25日 但し、展示は約20点





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片岡球子(1905-2008) 『面構 浮世絵師喜多川歌麿と版元蔦屋重三郎』(1992) 『面構 浮世絵師鳥居清長と版元榮壽堂主人西村屋与八』(1993) 『富士』(1980) 横浜美術館(2016年第1期)コレクション展より 2016-05-01

子どもの“服装”で大人たちの態度が激変…社会実験の内容がショッキング (IRORIO) ; きれいな服装の時は多くの大人が声を・・・

井筒監督が語る 差別問題の現状と深層 (BLOGOS) ; 『パッチギ!』を通し考える、差別の現状とリテラシーの必要性 : 井筒和幸[映画監督]×李鳳宇[映画プロデューサー] / 野間易通が解説、「在日特権」のウソとヘイトスピーチ ( ローリングストーン日本版2016年8月号)


ローリングストーン日本版2016年8月号掲載
特集:ヘイトスピーチ対処法成立〜施行で何が変わるのか〜
井筒和幸×李 鳳宇スペシャル対談

在日コリアン差別問題をテーマにした『パッチギ!』(2005年公開)の監督・井筒和幸氏とエグゼクティブプロデューサー・李 鳳宇氏の対談が実現した。『パッチギ!』の秘話などを通し、差別問題の深層や、法案成立後の課題などを聞いた。

(略)



2016年7月29日金曜日

(新刊) 「水木しげるの戦場」-従軍短篇集(中公文庫)2016年7月刊行。 水木自らの戦場体験を漫画で描いた作品を集めた一冊です。 — 水木プロダクション

日銀は死んだ (小幡績 ニューズウィーク日本版);日本の中央銀行は今日、「株価支援機構」に成り下がった / 焦点:政府と日銀の危険な綱渡り、ヘリマネとの境界線を市場は不安視 (ロイター) / 【日銀はついに「ヤバイ」領域に足を踏み入れた】 追加緩和で外国人も日本から遠ざかる?(東洋経済オンライン) / 今回の日銀の金融政策決定会合は明らかに「株価」のみを意識した政策。誰がためか / ETF爆買いの果て、日銀が日経平均企業9割で実質大株主-試算(bloomberg) / 追加金融緩和 「日銀の限界」指摘する声も ← これバズーカじゃないですよね? あの大見得は夢マボロシに?   
















▼ニューヨーク ドル円 102円 来た! → 更に?







東京 北の丸公園 タイワンホトトギス ムクゲ(八重) 清水濠 サルスベリ(内堀通り) 2016-07-28

7月28日の北の丸公園。

▼予想外だったがもうタイワンホトトギスが咲いていた。

▼ムクゲ(八重)



▼清水濠
藻の繁殖がヒドイ

▼内堀通りのサルスベリ(並木)

7月28日 皇居三の丸尚蔵館で公開されている『蒙古来襲絵詞』を見に行った(企画展『駒競べ』) ; 竹崎季長奮戦す(黙翁年表:文永11(1274)年10月)

東京 皇居東御苑 サルスベリ キキョウ ヤマユリ ヤマハギ ヒメリンゴ 2016-07-28 ポケモンGOはいなかった

東京 国立公文書館企画展『ようこそ地獄 たのしい地獄』 河鍋暁斎『暁斎画談』(「春日権現験記」 閻魔王と遊女 閻魔王と浄玻璃鏡) 『春日権現験記』(パネル) 『道成寺絵詞(賢学草紙)』 2016-07-28






東京 国立公文書館企画展『ようこそ地獄 たのしい地獄』 河鍋暁斎『暁斎画談』(「春日権現験記」 閻魔王と遊女 閻魔王と浄玻璃鏡) 『春日権現験記』(パネル) 『道成寺絵詞(賢学草紙)』 2016-07-28

7月28日、国立公文書館企画展『ようこそ地獄 たのしい地獄』

北桔橋門から皇居東御苑を出て、北の丸公園に行く前に、
国立公文書館の企画展を見に行った。

▼正門入ってすぐ、道路上に絵が描いてある。
立体的に見える工夫がされているらしい。

■はじめにーようこそ地獄
『暁斎画談』(明治20年刊)
作者は河鍋暁斎(かわなべぎょうさい 1831~1889)
 幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師・日本画家。
はじめ歌川国芳(1797-1861)に学び、のち狩野派の門下で研鑽を積む。
明治3年(1870)に筆禍事件を起こし、入獄をきっかけに「狂斎」の号を「暁斎」に改めた。
様々な画法を貪欲に追求、自らを「画鬼(がき)」と称した。
お雇い外国人として知られるジョサイア・コンドル(1852-1920)は弟子のひとり。
『暁斎画談』は自伝的な画集で、明治20年に出版された。

▼『暁斎画談』より「春日権現験記」模写
鎌倉時代に書かれた絵巻「春日権現験記(かすがごんげんけんき)」(三の丸尚蔵館所蔵)のうち春日明神が地獄をめぐる場面を写したもの。

▼『暁斎画談』より閻魔王と遊女

▼『暁斎画談』より閻魔王と浄玻璃鏡(じょうはりきょう) (谷文晁画の模写)

▼春日権現験記
(絵師) 高階隆兼(生没年未詳)
(成立) 延慶2年(1309)
 藤原氏の氏神である春日権現の霊験を描いた絵巻で、時の左大臣である西園寺公衡(きみひら 1264~1315)の命によって制作された。
春日大社に奉納され、現在は三の丸尚蔵館が所蔵している。
展示パネル↓は明治3年(1870)の模写で国立国会図書館の所蔵。
 展示個所は興福寺の舞人であった狛行光(こまのゆきみつ)が春日明神と共に地獄めぐりをする場面。



▼道成寺絵詞(賢学草紙)
(作者)未詳
(成立)室町時代後期か
 道成寺が所蔵する室町時代成立の『道成寺縁起絵巻』の異本に相当する絵巻。
遠江の長者の娘の花姫と、三井寺の僧の賢学の因縁が語られる。
別名に「賢学草紙」「日高川草紙」など。
 展示資料は享和2年(1802)に谷文晁(1763~1841)の門弟らによって模写されたもので、幕臣の屋代弘賢(ひろかた 1758~1841)の求めによって制作された。詞書は弘賢の自筆。
 弘賢が集めた膨大な蔵書は不忍文庫と称された。
奥書によれば、本資料は不忍文庫の内の一点として所蔵されていたもの。


以上は展示物のごく一部。



7月28日 皇居三の丸尚蔵館で公開されている『蒙古来襲絵詞』を見に行った(企画展『駒競べ』) ; 竹崎季長奮戦す(黙翁年表:文永11(1274)年10月)

東京 皇居東御苑 サルスベリ キキョウ ヤマユリ ヤマハギ ヒメリンゴ 2016-07-28





誰にも正義は押し付けられない (小田島隆 日経BP) ; 「いずれも(曽野綾子も植松容疑者)、人間の価値を「社会のために役立つかどうか」で評価するという前提を共有している点では同じだ。」 / 小田嶋さんの書いたものを読んで、一つ言い足したいことを思いつきました。それは「弱者を含んでいる組織の方が、集団として生き延びる力が強い」ということです。この人類学的教訓を古来無数の物語が伝えています。 — 内田樹


(略)

 思うに、彼女の「本音」を称揚する人々は、彼女が残酷なことを言うのは、「彼女が残酷な人間だからだ」とは考えていない。曽野綾子さんの読者は、彼女が残酷な本音を言うのは、何よりも偽善を憎み不都合であれ残酷であれ、目の前にあるありのままの真実を、あるがままに伝えようとする勇気ある正直な人間だからだというふうに考えている。

 で、そういう人たちにとって、「社会にとって役に立たなくなった人間は、社会から身を引くべきだ」という思想は、残酷である以上に、「真実」なのだ。

 とすれば、それら「曽野綾子さんが言う、この世の重いけれども直視しなければならない“真実”」は、植松容疑者の言う、「障害者は不幸を作ることしかできない」という断言と、そんな遠いものではない。

 植松容疑者のように、あえて障害者を殺すという積極的な行動に出ることと、老人にドクターヘリの不使用を促して、やんわりと不作為の死を促すことの間には、もちろん、巨大な違いがあるし、明らかな犯罪である前者と、単に底意地の悪い忠告に過ぎない後者を同一視することは断じてできない。

 しかし、いずれも、人間の価値を「社会のために役立つかどうか」で評価するという前提を共有している点では同じだ。

 彼らは、「人間の生存を保障するために社会が設計されている」というふうには考えない。「社会を存立せしめるために人間の生存が許されている」というふうに考える。

 とすると、社会に役立つパーツとしての役割を終えた老人や、物理的な制約から社会に役立つことができない状態にある病人や、負傷者や、はじめから社会の役に立つことの難しい障害者は、社会に負担をかけないためにも、なるべく早く退場すべきだというお話になる。

(略)






参考記事
「弱者を抹殺する:優れた遺伝子が生き残るのが自然の摂理ではないのか」という Yahoo!知恵袋の質問に対する進化学な見地からの丁寧な回答。 → 我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンスの生存戦略だということです

この子らを世の光に  糸賀一雄 (鷲田清一 『朝日新聞』折々のことば) : 「この子らに世の光を」ではない。逆である。・・・この子らと家族がもし不幸であれば、私たちの社会もまた不幸である・・・





東京 皇居東御苑 サルスベリ キキョウ ヤマユリ ヤマハギ ヒメリンゴ 2016-07-28 ポケモンGOはいなかった

7月28日(遅めの梅雨明け宣言が出た日)の皇居東御苑。

三の丸尚蔵館での『蒙古来襲絵詞』公開もあって、
すごく久しぶりに皇居東御苑に行ったが、
二の丸雑木林などをぶらぶらするのも楽しみだった。

7月28日 皇居三の丸尚蔵館で公開されている『蒙古来襲絵詞』を見に行った(企画展『駒競べ』) ; 竹崎季長奮戦す(黙翁年表:文永11(1274)年10月)

あ、それから、東御苑内にはポケモンGOの関係者はゼロだった。
このあと、北の丸公園にも行ったけど、多分ゼロだったと思う。
(北の丸は隈なく歩いていないので推測)

▼サルスベリ
推測していたほどには開花はまだまだの状況だった。



▼キキョウ
キキョウをはじめとする秋の七草、もう終わりだったみたい。
キキョウも残り僅か。
オミナエシはまったくない。

▼ヤマユリ
ちょうどピークのようだ。
ただ、オニユリはもう終わり。
本丸休憩所裏の群生地にも殆どなし。

▼二の丸雑木林

▼ヤマハギ
まだ咲き始め。

▼名前不詳の蝶

▼ヒメリンゴ

▼本丸広場遠景

▼百人番所あたり
梅雨明け宣言があったが、夏本番の空ではない